ここでいう「とんでもない作品」とは、今まで見たことのない作品のことである。そこで「」をつけた。
近現代の短歌史を俯瞰すると、「とんでもない作品」「とんでもない作家」は少なくはない。
まず正岡子規。当時「和歌の聖典」と呼ばれていた古今和歌集を、徹底的に批判した。(「歌よみに与ふる書」)と同時に今まで詠まれなかったものを素材とし、用語の範囲も広げていった。
それから齊藤茂吉。「写実派」に属しながら、「空想的」と伊藤左千夫が呼んだ作風があらわれているのが、第一歌集「赤光」である。作風はときとともにかわるが、最後に到達した作風は、どこか「空想的」なところがある。現実のものを詠みながら、なにか「空想の世界にあそんでいる」ような趣がある。それにくわえて、芥川龍之介・中野重治をはじめ他のジャンルの文学者のあいだにも、感動を呼んだ。アララギの同人たちから異論が上がったが、それを庇ったのが伊藤左千夫。その伊藤左千夫と斎藤茂吉のあいだで、大激論があったのは良く知られている。
ところが、この二人は近現代短歌史に多大な業績を残した。
また山崎方代も「とんでもない歌人」だった。口語をとりいれた独特の文体。総合誌にまとまった数の作品が掲載されたときには、編集部に「抗議の電話」が多数かかってきたそうである。しかし今は命日が「方代忌」と呼ばれ、多くの人が集う。総合誌の「歌壇ニュース」などでもとりあげられる。
最後に「前衛短歌」(塚本邦雄・岡井隆・寺山修司)、同時期の「女性歌人」(葛原妙子・中条ふみ子)も例外ではなかった。これは中井英夫による「寺山修司青春歌集・解説」や、岡井隆著「私の戦後短歌史」によって知られる。
「とんでもない作品」「とんでもない作家」の業績を認めさせたのは、時間という「批評家」である。半世紀も経てば、評価も定まる。
「万葉集」や短歌形式が長い歴史をくぐりぬけてなお残っているのは、時間の試錬に耐え得たのと同じである。
このところ「既視感」という批評語をよく聞く。いったい誰が言い出したのか僕は知らない。「いままで見たことがない」という意味のようで、「新人賞であるからには既視感のないものがふさわしい。」とまで言われることがある。
だが、その「既視感」のなさが時間と言う批評家に耐えうるかどうかは誰も問題にしない。少なくとも僕の知っている範囲では。
「とんでもない短歌作品」が、正真正銘とんでもないものになったとしたら、それこそ、とんでもない話だと思うのだが、いかがだろうか。
これもまた、「これでいいのか」と僕が思う事のひとつである。