8 「運河」357号 作品批評
先ずは時事詠、社会詠について考えてみたいと思う。何故ならば、最近の「運河」誌上に「時事詠、社会詠」もどきの作品が散見されるからである。佐太郎の歌論を杖とするなら、次のような言葉を心に留めておく必要があるだろう。
「短歌が現代の複雑な思想・感情を盛り得ないようにいうのは完全な見方ではない。現代の複雑な思想・感情を盛り難いという事はいえるけれども、不可能なことではない。現代の優れた歌人はそれを実行している。それが不可能のようにいうのは『詩』を胸で受け取る事の出来ない批評家か怠惰な作家である。」(『純粋短歌』)
では佐太郎の実作はどうであったか。次に三首挙げる。
・戦はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼『帰潮』
・拳銃はつとめの故に帯ぶといえど「一切の者刀杖を畏る『同』
・砲弾の炸裂したる光には如何なる神を人は見るべき『同』
一首目は中国内戦の激化、二首目は、戦後始めて警察官が拳銃をもつようになったこと、三首目は朝鮮戦争開始に関して詠まれたものである。いずれも抒情詩としての言葉の「昇華」がある。しかし本誌2月号には次の様な作品があった。
(米国の大統領を皮肉る歌)
(衆議院議員選挙を皮肉る歌)
これは抒情詩になっていない。いいところ三流の週刊誌の見出しである。
一方、同じ作者の作品に次のようなものがある。
(村の住職の突然の死を悼む歌)
(幼子にマフラーを編んでやる歌)
身辺詠だが「詩」として成立している。二人の作者は、かつて勝れた自然詠を出詠したこともある。実力があるだけに、一段の工夫を望みたい。
(廃校に菜の花を活ける歌)
過疎の村の問題をとりあげた社会詠。抒情があり、われへの引き付けも充分である。花を活けたのは誰か、どこの学校か、暗示はされているが具体的のは書かれていない。これが捨象。つまり余情を捨てるという表現の限定である。
(蔦竜胆の花の歌)
どこの山か、これも捨象されている。そして下の句が作者の発見でもある。ちなみに明るい緑と赤は補色関係にあり、目立つ色の組み合わせである。
(九か月の療養生活ののちに新たな癌の見つかる歌)
癌は一般に、三年延命すれば五年は生きられる。十年経てば完治と言われる。「九か月」「新たな癌」とあるから、手術後九か月ということだろう。癌を病んだ者としては最も不安な時期である。結句に工夫の余地があろうが、感情は切実である。
(音もなく降る秋雨のなか心がゆるぶ歌)
上の句は情景で下の句が心理。言葉の間より余韻のようなものが立ち上がって来る。しかし、同じ作者の作品には次の様なものがある。
(女孫とハグを男孫とハイタッチをする歌)
「ハグ」「ハイタッチ」共に俗語であり内容も薄い。安定した作品の質を保てるよう一層の工夫を望みたい。
(沢蟹の見えなくなった川のせせらぎの紅葉の歌)
自然破壊の一端であろう。沢蟹は清流に住む。それが見えなくなったのは川の汚染のためだろう。紅葉(もみじ)はまだ残っている。やがては紅葉もなくなりかねないとしたら・・・。これも又一つの社会詠である。
(まだ遊ぶという幼子をなだめて帰る歌)
子供は遊びに夢中になる。日が暮れようとしているのも考えずに、まだ遊ぶ。おそらくそれをなだめながら帰ったのであろう。
(幼子の話に乗って南瓜を飾り菓子を用意する歌)
作品中には表現されていないがハロウィンの一場面であろう。ハロウィンとは日本の節分に似た行事であるが、ハロウィンと書かれていないところが作品の奥行を深めている。とくに上の句が佳い。
(秋晴れの放棄された田の草を刈る歌)
(父の亡きあとに母が放棄した田の歌)
日本の農業問題は深刻である。四十年余り前は「三ちゃん農業」と言われたが、今では後継者のない農地が増えている。その問題を当事者として詠んだところに価値がある。佐太郎の「純粋短歌」に「体験」の章があるのを会員諸氏は想起して欲しい。
(八十年生きて余生を思う歌)
境涯詠である。心理詠の一つであるが、単なる心象スケッチでない所に注目した。心象詠と称して、浅く軽い内容のものは自戒したいところ。
その他注目した作品を三首挙げる。
(洋梨を両手に抱く歌)
(棚田の稲の光る歌)
(黒米の田に子供らと作った紙の案山子を吊るす歌)
地味な作品にも佳詠は多い。