西暦2000年と言えば、20世紀最後の年。そこでの雑誌の特集は当然、21世紀を見据えたものになる。
「短歌研究」の6月号の特集もそういう意図で企画されたものだろう。「特集:新しい『感性』を表現する」
だが、13年経った現在の時点で読み返すと、なにやら可笑しな感じがする。
先ずは、目次。
1、現代短歌にあらわれた伝統的感性:
「もののあはれ」「わび・さび」「粋」
2、現代短歌にあらわれた新しい感性
「パラサイト感覚」「エスニック感覚」「エコロジー感覚」「地球感覚」「カオス感覚」
「ファジー感覚」「ライト感覚」「クリスタル感覚」「オタク感覚」「密室感覚」
「こだわり感覚」「ヴァーチャル感覚」「ホラー感覚」「オカルト感覚」
「ミステリアス感覚」「フェニミズム感覚」「性交替感覚」「遺伝子感覚」
「デジタル感覚」「ゲーム感覚」「双方向感覚」「レトロ感覚」「癒し感覚」
この目次だけを見ても、何やら奇をてらった感がある。
「パラサイト」「エコロジー」「ファジー」「デジタル」。これらは21世紀に入ろうとした時期の流行語だった。特に「ファジー」は「緩やか」という意味で当時の電化製品に、決まり文句の様に出たものだった。
次に内容。
それぞれの感覚に短歌の実作4首が挙げられ、それぞれ歌人が解説をしている。「短歌」を「定型の抒情詩」と考えた場合、首を傾げたくなるものがいくつかある。
・サバンナの像のうんこよ聞いてくれだるい切ないこわいさみしい(穂村弘)
・歯にあたるペコちゃんキャンディからころとピアノの上でしようじゃないか(加藤治郎)
・ガラス瓶をプールサイドに投げつけた音のおかげで静かになった(白川ユウコ)
・▼▼▼雨カ▼▼コレ▼▼▼何ダコレ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!(荻原裕幸)
・言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ラン!(加藤治郎)
唖然とする。これは抒情詩ではない。特に最後の二首は記号の羅列であって文学ではない。このなかに今では名前さえ忘れられた作者もいる。
一首目の穂村弘の作品を詳しく見よう。この一首の解説は「かばん」の井辻朱美が書いている。全文をここに記す。
「社会学者の山田昌弘が『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書)の中で論じたパラサイト・シングルとは、親元に同居して独身のまま貴族的な生活を送る男女のこと。彼らは『親に生活条件(家事、住居など)を依存』するので、高額消費者となりえ、気に入らない職にはつかず、恋愛においても帰る家があるので追い詰められることがない。そのパラサイト・シングルの騎手のような穂村の歌は、ポップな商品名や会話体にあふれ、イメージの世界を遊戈しながら、その中で、経済や生活(臭)とは関係のない、ある意味では精製水のような愛を歌う。掲出歌は彼の代表歌の一つで、このような情動の表出のしかたは彼の独壇場とも言え、多くの若者を惹きつけている。」
「気に入らない職にはつかず」というのがバブルの時代を彷彿とさせる。まさにバブルだったからこそ注目を浴びた作品だろう。その意味でこの一首は「抒情詩としての普遍性」がない。井辻朱美の「仲間誉め」もここまで行けば開いた口が塞がらない。この奇抜な歌が穂村弘の代表歌でないことは、穂村自身が自覚している。
佐佐木信綱、尾上柴舟、太田水穂、与謝野晶子、斎藤茂吉など、まさに歴史に残る歌人が肉声で自分の作品を吹き込んだCDのセット(「現代短歌朗読集成」)がある。これは古くはビクターレコードから出されたものだが、現代の歌人を入れて、平成20年に「同朋社メディアプラン」から発売された。
そこには穂村弘も参加しているが、掲出歌は収録されていない。下手をすると末代まで言い伝えられるかもしれない企画に、穂村はこの一首を入れていない。
同時に、加藤治郎もここに挙げた作品は収録していない。抒情詩として自信があれば、収録するはずである。つまり言葉と記号の「お遊び」でしかない。新古今集以降、和歌が公家の「お遊び」となって、衰退したことを忘れてはなるまい。ちなみに、掲出の五首は、「現代短歌朗読集成」にも、「角川現代短歌集成」にも収録されていない。
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