齊藤茂吉と佐藤佐太郎が口語短歌にどういう見解をもっていたかは既に記事にしたが、僕の一番の注目点は、
「子規のは是が非でも口語でなければならないという野心がない」
という斎藤茂吉の見解と、
「口語も文語もない。・・・打って一丸となって詩になればよいのである」
という佐藤佐太郎の見解。特に佐藤佐太郎の書き残したものである。
佐太郎の言う「詩」が短歌を想定しているのは言うまでもない。つまり、「打って一丸となって詩となる」とは、「短歌形式に口語がなじむように」ということだと僕は受け取っている。また、「実作をもって示されなければならない」という斎藤茂吉の言葉にも注目している。
「短歌形式が文語を呼び込んでいるように感じている」「短歌形式の持つリズムと、文語という言葉のもつリズムが一致している」とさまざまな意見がよせられた。実際短歌の中に文語をとりいれるのは本当に難しい。どうしても軽くなってしまうのである。
「星座」誌上でさまざま実験してきたが、このごろようやく自分のものになってきたと思う。10年という歳月がかかった。「実作をもって示す」という茂吉の言葉の重みと、その「宿題の難しさ」をあらためて感じている。
短歌形式は5句31音と短い。それゆえ地に足のつかない軽さは致命的である。用意周到な心構えが必要だ。子供の言葉をそのまま短歌にしたこともあった。子供の発する言葉が、無意識に5音7音のリズムをとることが案外多い。その言葉をそのまま「短歌」にしたこともあった。
・「お父さん、お姉ちゃんの絵ばかりほめないで。私のだって張ってあろのよ。」・
また一部詠み込んだものに、
・かくれんぼに疲れた児らが順に言う「一抜け、二抜け、三抜けたあ。」・
「二抜け」は「にいぬけ」と読む。実際にかくれんぼをしていた児らが発した言葉である。自然発生的に7・7の「下の句形式」になっていることは驚きだった。だからこそ詠み込んだのだが、やはり軽い。どうしても軽くなる。
そんな時出合ったのが、谷川俊太郎の言葉である。
「子どもの発する言葉は詩的ではあるが、詩そのものではない。」
では、どうすれば短歌形式のなかに「地に足をつけた」かたちで口語をとりいれられるか。いずれ記事にしようと思う。