自宅に時々、面識のない方から短歌雑誌が送られてくる。そこに僕の歌集の書評が載っていたり、全国集会での僕の発言が載っていたりする。どこでどう巡り巡ってくるのかさっぱりわからないが、他の結社誌を読むのはある種の新鮮さがあり、気づかされることも多い。
短歌の表記も様々である。旧カナで通す雑誌、旧カナ・新カナと選べる雑誌。ほとんど全員が新カナで通しているものもある。
先日ある雑誌が届いた。一読して、旧カナ・文語にこだわっているのがわかる。しかし、ひとつ違和感があった。文語にこだわるわりには、文語文法が間違っているのである。
「あざやけき」「すこやけき」・・・。どれも文語ではない。というより、こんな言葉はない。文語もどきである。疑似文語と言ってもいいだろう。「角川短歌・9月号」の誌上歌会ではベテラン歌人が文語の用法を間違っていて、歌壇の重鎮に指摘されていた。(「< つまらなし >という日本語はない。」)
それならいっそ、部分的でもいいから口語を使えばいいのに、僕の手元にあるその雑誌の「編集後記」にはこう書いてあった。
「短歌は本来的に文語で詠むものだ。」
それは当然である。言文一致は明治以降のものだから。だが「本来的」という言葉も気になる。何を以て「本来」というのか。これは論拠を示さずに異論を退ける便利な言葉だ。
「あざやけき」は「あざらけき」が、「すこやけき」は「つつがなき」が、それぞれ正しい。こんな間違いをするなら、「あざやかな」「すこやかな」と口語を使ったほうが、むしろ自然だと僕は思う。または「疑似文語」として、どんどん造語するかのどちらかだろう。無論、批判を覚悟しての選択ではあるが。
また、収録作品の中にこういう結句があった。
「われは知らずき」
文末の「き」は過去の助動詞。ならばその前に用言を使うなら、連用形にしなければならないから、「知らざり」とすべきだ。結句は「われは知らざりき」でなければおかしい。
思うに、その人の中には二つの原則があるに違いない。「5・7・5・7・7の定型は守るべきだ」「特殊なものを他と区別して表現するときは、係助詞の< は >を使うべきだ」。
それが混線して「われは知らずき」となったのであろう。これでは原則ではなく「公式」だ。
それからまだあった。「べし」の前が連体形なのだ。これも明らかな文法上の間違い。これらはみな、同人クラスの作品群のなかにあった。
転じて一般会員の欄に目を移すと、文語と口語が上手いことミックスされている。こちらの方が自然だ。
考えてみれば当然である。文語は日常的に使われる言葉ではなくなった。だから間違える。
佐太郎が次のように書き残しているのも、こういう事態を見通していたからかも知れない。
「私達の前には文語も口語もない。現在の言葉だけがある。・・・左千夫がいうように、あらゆる言葉が、文語も口語も洋語も漢語も打って一丸となって歌の中に生きていてよいのだと考えられる。」(「純粋短歌」)
茂吉は「けるかも」を好んで使った。だが佐太郎は、初期に「けり」を使っているが、「歩道」(作歌年代から言うと、第二歌集)以降は、数えるほどである。「けるかも」は一首もない。
斎藤茂吉も「自分の自由になる言葉で表現すればいい」と述べている。文語・口語の混合文体は、もはや止めようがない。というより、現代人にとって、より同時代的な表現を可能にするものだと思うがどうだろうか。