先ず、文語・口語についての斎藤茂吉・佐藤佐太郎の言うところを確認しておこう。
斎藤茂吉。
「子規の(短歌)は是非とも口語にせねばならぬといふやうな野心が無いから、自由自在である。・・・石川啄木も口語的発想の歌を作ったが、これも口語といふことに囚われずにしまった。おもふに口語歌の問題は、優れた歌人を得て、実行のうへではじめて解決せられるべきものであらう。」(「短歌一家言」)
「(日本人は)万葉調を棄てて、何かほかの変ったものに就くであらう。自分は以前からそれを望んでゐる。なぜかといふに、歌壇の色合は余りホモーゲン(=同種の、同質の)で面白くないからである。自分が口語歌に同情してゐるのはその点にもある。」(「気運と多力者と」)
佐藤佐太郎。
「私達の前には文語も口語もない。現在の言葉があるだけがある。・・・左千夫がいうに、あらゆる言葉が、文語も口語も洋語も漢語も打って一丸となって歌の中に生きていてよいのだと考えられる。」(「純粋短歌論」)
「現在の口語歌のようなものが短歌の将来の相だとは私には考えられない。やはり短歌的格調がなければ満足出来ない。」(「同」)
「雅語が必ずしも美しくないのは言葉が磨滅して生気がないからである。」(「同」)
「言葉を内部から産むようにして苦心するならその言葉は生きてくるだろう。」(「短歌作者への助言」)
要するに、文語でなければならない、完全口語でなければならないという公式的理解ではいけないのだ。
よく「この言葉を使ってもいいですか」と聞かれる。これには何とも答えようがない。一つの言葉が「生きるか死ぬか」は一首のなかでどういう「はたらき」をしているかによる。
佐太郎は「短歌的格調」と言ったが、僕は文語に「厚み」と「ぬくもり」を感じる。心に沁みるのだ。例をあげよう。
「冬来たりなば春遠からじ」「勝って兜の緒を締めよ」
これらは文語で一度聞くと心に刻みつけられる。
「春よ 遠き春よ まぶた閉じればそこに
愛を くれし日々の なつかしき声がする」
松任谷由美の歌の歌詞だが、文語・口語の混合文体で文語が効果的に使われている。口語にはない語感だ。
一方「思ほえず」「けるかも」「かぎろひ」「ひむがし」などは現代短歌としては、古風に過ぎると思う。ただ語感は個人特有のものだし、意識的に古風にする場合も有り得る。
肝心なのは一首の中で生きているかどうかの問題。何が何でも「文語でなければならない」「口語でなければならない」と公式的に捉えないで、「文語を上手く使う」のが重要だと僕は考える。