佐藤佐太郎は1972年(昭和46年)に自選歌集「海雲」を出版し、1980年(昭和55年)に「海雲」の自註(「作歌の足跡」)を出版している。「自註」の執筆はそれより数年前である。「海雲」は62歳、「自註」は60歳代後半の執筆だから、二つの書物は、佐太郎60歳以降の歌境だと言っていい。佐藤佐太郎は1966年(昭和41年)・57歳、1967年(昭和42年)・58歳と続けて入退院を繰り返した。特に1967年は病院で新年を迎えることとなった。
急に老いを感じ始めたのであろうか、老成した作品・自註が多くなるように見える。いくつか作品を挙げてみる。
・限りなき砂の続きに見ゆるもの雨の痕跡と風の痕跡・
中東の砂漠を詠んだ歌。「輝く砂漠の凹凸がはっきり見え、風に吹きよせられた跡や雨の流れた跡がわかる。」と自註にある。凹凸をその形を言わず「雨の痕跡」「風の痕跡」と捉え表現しているところに、作者独特の感受がある。砂漠名など固有名詞を入れたくなるところだが、そこは捨象されている。下の句が対句になっているのも一つの工夫だろう。こういった心の働きに「達観」に似た心情を感じる。
・年々に地せばまりてゆく島にひとつの井戸によりて人住む・
自註によれば、「地(つち)せばまりてゆく」とは、島がシラスでできているために、波に削られていく島であるとのこと。「ひとつの井戸によりて人住む」の表現に特徴がある。過疎の孤島だろうか。こういう人々の暮らしに静かに心を寄せるというのも、若いうちにはなかなか難しかろうと思う。旅行詠だが、他人ごとになっていないのがいい。
・ひといきにビール飲むとき食道の衝撃にも老いて弱くなりたり・
「老い」という言葉がでてきた。ビールをひといきに飲むのも若い時とは違う。ビールはのどごしで飲むとよく言われるが、それも半ばしんどい。青年時代に浅草界隈を徘徊した(「佐藤佐太郎」今西幹一・長沢一作著)佐太郎としては特別な感慨があったのだろうか。
この「海雲」の自註(書名「作歌の足跡」)のあとがきに次のような一文がある。
「作歌はものを正しく見て、確かに表現するものだといことを悟って貰いたい。そのうえ出来れば言葉の響きに遠韻があるようになってほしい。」
< 遠韻 >というのは、「風のないときに上っていく煙突の煙が、微風によってかすかに動く」と別の所で佐太郎は述べているが、ここにシャープな都市詠を詠んだ30代の佐太郎にはない境地がある。「年齢に応じた詠い方がある」ということだろうか。