人間の真意というのはそう簡単にわかるものではない。誤解したり、されたり、思い違いしたり、されたり。
歌人岡井隆が何を目指そうとしていたのか。今でも不明なことだらけ。
ライトバースに対する評価もそのひとつ。ライトバース・ニューウェーヴと呼ばれる歌人たちが世に出るきっかけとなった新人賞の選考委員だったのに、「角川短歌」の「大特集・俵万智」(2004年6月号)では、「もはや俵万智の時代ではない」と断じた。これには驚いた。言われた本人も驚いたに違いない。
岡井隆の発言の真意。なぜ新人賞に推して、なぜ今頃「梯子をはずす」ようなことをするのか。岡井隆著「私の戦後短歌史」を読んでいて、その理由の一端がはじめて分かった。
1・ライトバースについて
「オーデンが言ったライトヴァースという考え方はもっと深い話なのだけれど、いくら説明しても通じないから、はしょります。要するに、ライトヴァースというのは軽い歌のことになってしまった。実のことを言うとこれは、短歌で言うと日常詠的な詩なのです。・・・< 世界のライトヴァース・日本のライトヴァース >といって、書肆(しょし=書店)山田がシリーズを組んで出したことがありますが、翻訳詩ですからよけいそうなのですが、< え、これライトバースなの。ずいぶん難しい。 >と思うくらいです。」
「バブル化して、モノは豊か。もう戦争は起こりっこない。錯覚だったのですが、日本のライトバースはそんな状況の中で生まれた。」
・僕のコメント:「ライトバース」は軽い感覚の歌を指すものではないようだ。いつだったか総合誌誌上で、穂村弘が「バブルという追い風を受けて僕らは登場した。」という趣旨のことを書いていたが、それと符合する。「いくら説明しても通じないから、はしょります」という岡井の言葉に落胆を感じるのは僕だけだろうか。そして、誰に言い、誰が分からなかったのか知りたいところだ。
2、ライトバース・ニューウェーヴ短歌の評価について
「87年に加藤治郎さんたちが出て来た。いわゆるライトヴァース、あるいはニューウェーブですね。この連中が引き受けてくれたから、まあ、私の役目は終わった、ということです。」
(彼らは引き受けているのですか。:インタビュアー小高賢)
「そのとき、そう思った。しかし、そうはなっていない。」
・僕のコメント:先にあげた穂村弘の論考のなかで、穂村自身は「前衛短歌の志を引き継ぐのは僕らだ。」という趣旨のことを述べているが、「前衛短歌」の歌人から見ればそうではないようだ。やはり落胆の気持ちが強いように思える。「ライトバースの意味を取り違えているぞ。」と言う岡井の声が聞こえるようだ。
3、穂村弘の評価について
「穂村君はどちらかというと負の帝王のほうですよ。だから正符合のひとがいないといけない。」
「対抗できるだけの人がなかなかいない。私性のもっと濃い、あるいは写実も十分できるような、・・・それでいて、明らかに今の時代を鋭く反映している歌人がほしいのです。」
「穂村君自身が、どっちに行っていいかなと、絶えず悩んでいる。・・・今度の穂村君の評論集< 短歌の友人 >ですが、僕は待望の書だと思う。加藤治郎、萩原裕幸の三人は今までああいう本を出していなかった。」
・僕のコメント:さすが、見ているところはきちんと見ているのだと思う。「期待はずれ」というニュアンスをにおわせながら、あるいは厳しい目でみながら、「期待にそってくれ」とエールを送っているように感じた。いわば、穂村弘を「立体的」に見ているのだ。
4、そのほか
「俵万智と俵万智現象について」「ネット上の笹公人について」など岡井隆ならではの戦後短歌史の見方がおもしろい。当事者だっただけに、「前衛短歌」についての言及にも説得力がある。「角川・短歌」の「前衛短歌は何だったのか」と合わせて読むと、戦後短歌史や前衛短歌の全体像がつかめるのではないか、と思う。