島木赤彦(1876~1926)と斎藤茂吉(1882~1953)。島木赤彦のほうが6歳年上ながら、二人ともに伊藤左千夫の弟子で、「ライバルであり友人でもあった」(岡井隆「茂吉の短歌を読む」)のですが、ある意味では「二人三脚」で大正期の「アララギ」をささえた双壁だった。
まず友人の面から。斎藤茂吉は何度か病気のため転地療養しているが、島木赤彦はたびたび見舞いに地方にまで出かけている。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」の詞書、茂吉の歌集の後記、「作歌40年」などをつきあわせるとそれがわかる。そうとう親しかったようだ。
・この道は山峡ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ・(「つゆじも」)
1920年(大正9年)の作だが、長崎で療養している茂吉を赤彦が泊りがけで見舞ったときの作品。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」73ページに詞書がある。
こういった親しさは同じ世代だったことにもよるだろう。伊藤左千夫(1864~1913)の生年は江戸時代にあたり、没年は大正初年である。それに対し島木赤彦と斎藤茂吉はともに明治時代に生まれ、ともに大正時代を生きた。伊藤左千夫との間には一世代近くの差がある。年齢のみならず、生きた時代が決定的に違う。赤彦の作品をめぐって茂吉はのちに左千夫と激しい論争をしたが、「若い茂吉たちにとって、伊藤左千夫などの作品は食い足りなかったのだろう」というのは、新潮文学アルバム「斎藤茂吉」の記述である。
具体的には「写生論」の違いである。「写生の語は絵画用語であり写実と言うべきだ」という伊藤左千夫に対し、島木赤彦と斎藤茂吉は「写生」の語を用いた。赤彦と茂吉の代表的な歌論のかなりの部分が「写生の用語例」にさかれているのは、伊藤左千夫への対抗心のあらわれだろう。(島木赤彦「写生道」、斎藤茂吉「短歌に於ける写生の説」の前半部分)
また短歌作品の内容と声調の関係。「声調と内容のどちらを選ぶかと問われれば、声調を選ぶ」と内容と声調を分けて考える左千夫に対し、赤彦と茂吉は「作品の内容により、それにふさわしい声調がある」と考える。
こういった共通点のせいだろうか、伊藤左千夫死後のアララギの編集発行人は、左千夫死後に島木赤彦が上京して編集発行人を引き受けるまで、斎藤茂吉が編集発行人を務める。そして島木赤彦死後はふたたび斎藤茂吉が編集発行人となり、やがて土屋文明に引き継ぐ。島木赤彦の前後に斎藤茂吉が編集発行人をひきうけ、「アララギ」の発行を継続しているのだ。
ではライバルの面はどうだろう。作風・歌論の上では既に述べたように、島木赤彦には「士族的要素」があるのに対し、斎藤茂吉には「汎神論的性格」がある。これは二人の出自の違いにあるのだろう。
そこで二人の競い合いが起る。1925年(大正14年)の「改造」誌上の二人の競詠の話は二人の関係を見るうえで、まことに面白い。(岡井隆著「茂吉の短歌を読む」)
また歌集の出版も競うように行われた。茂吉の「赤光」と赤彦・中村憲吉共著の「馬鈴薯の花」が同じ1913年(大正2年)。茂吉の「あらたま」が1921年(大正10年)に対し、島木赤彦は「氷魚」「太虚集」「柹蔭集・しいんしゅう」を1920年(大正9年)から1926年(大正15年)にたて続けに出している。
さらに斎藤茂吉がヨーロッパ留学から帰った1924年(大正14年)には、「アララギ」は巨大結社になっており、帰国後の茂吉は島木赤彦とどう上手くやっていくかを考えたといわれる。まさにその年が先ほどの競詠の行われた年だが、その2年後に島木赤彦はこの世を去る。斎藤茂吉は「島木赤彦臨終記」を書いている。
お互いにかなり強烈な個性を持ちつつ協力できたのは、「写生」「万葉集に学ぶ」ということが作歌の基本にあったからである。だから対立せず競い合いができたのだ。(もちろん折り合いをつける配慮は双方がしたようだが。)
競い合いは活力を生む。大正時代に「アララギ」が大結社となった力のひとつはこのあたりにあったのだろう。(「統一の中の多様性を互いに認め合ったとでも言おうか。)
こう見てくると島木赤彦と斎藤茂吉はお互いに刺激しながら、また協力しながら作歌活動をしていたことがわかる。「斎藤茂吉を読むのだったら島木赤彦も読んだらいい」と「角川短歌」2月号で岡井隆が述べているのもこのあたりに理由があるのだろう。