岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「写生論」を現代に活かす(文学の条件)

2014年05月19日 23時59分59秒 | 写生論の多様性
「文学の条件」(「星座α」5号より) 


 正岡子規が「連俳は文学にあらず」と言ったのは有名な話だが、斎藤茂吉もまた「文学直路」という歌論を残しているから、短歌を文学として捉えていたことが分かる。

 では佐藤佐太郎はどうか。佐太郎の残した歌論には次のような一文がある。

「短歌は抒情詩であり、端的にいえば詩である。短歌の純粋性を追尋するのは、短歌の特殊性を強調するのではなくて、短歌として盛るべき内容を考えようとする。」「本来の詩は知性をも批評をも既に包摂して、それを超えている。またそれであるから、この力が強く働けば詩はおのずから思想的になるので、肉体化した思想というものはこの直観の中にある。また『生活』ということも、詩においては生命の律動として理解されなければならない。」


 ともに『純粋短歌』より引用した。短歌を「詩」「肉体化した思想」などという言葉で捉えているので、「文学」という文字はないものの、短歌を人間の知的営みの結晶、すなわち文学と捉えていたことがわかる。つまり、ただ事実を五・七・五・七・七、の定型にあてはめただけでは詩にならないし、軽い機智の類も文学たりえないということだ。では短歌を文学たらしめるものは何だろうか。色々あろうが、抒情、主題、象徴の三つは欠かせないだろう。

 先ず抒情。これは端的に言えば人間の喜怒哀楽である。短歌、即ち抒情詩の目的は、情報の伝達ではなくて、情感の伝達である。作者の心情を読者に伝えること、これが抒情詩としての条件の一つである。やたら難解な言葉を並びたてて詩だと言っても読者に伝わらなければ意味がない。

 現代詩の分野で新人が排出していると言われたが、晩年の吉本隆明はそれを憂いていた。「行分けして、難解な語を連ねて詩と称しているが、全く詩になっていない。まるで暗闇のようだ。」

 つまり、どういう質の抒情を読者に伝えるか、これが定まらなければ文学とは言えないだろう。佐太郎が「短歌に盛るべき内容」とは正にこのことである。

 次に主題。抒情の質と内容が定まれば当然のこと主題が明確となる。小説やあ演劇など芸術にはすべて主題があり、主題なき作品は芸術でも詩でもないのである。主題なき文学も又、ありえない。

 斎藤茂吉は歌人としてだけでなく、エッセイストとしても文才を発揮した。岩波文庫に『斎藤茂吉随筆集』が出ているが、その中に森鴎外の歴史小説についての評論が収録されている。小説のタイトルとその小説の主題について述べられている。つまり小説には必ず主題があるという事であり、文学に主題は欠くことの出来ぬものということである。

 主題が決まれば、あとはどう表現するかが問題となる。短歌は五句三十一音という短い詩形であるため、どこをどう切りとるかが最重要になる。小説や随筆のように多くを入れることは出来ない。「短歌は一人称の文学」であると言われる通り、仮に登場人物を設定しるとすれば、作者本人すなわち「われ」と語りかける相手、この二人がMAXである。

 登場人物が一人か二人。茂吉は前者に「独詠歌」、後者に「対詠歌」という名をつけた。このうち「独詠歌」は「作者自身が自分自身に問いかけをする」ものであって、多くは自省的なものとなる。これは「自己凝視=自分を見つめる」と呼ばれる。極めて哲学的命題に応えんとする営為だある。

 最後に象徴。多くの万葉人は別れの歌に「滴」を用いた。これは悲しみの象徴、涙を連想させる。「風」といえば、はかなきものを連想させ、同じ川でも上流の谷川と下流の緩慢な流れでは連想する内容そのものが違う。岡井隆や塚本邦雄が、叙景歌で作者の心を映すことになると言ったのはこのためである。

 この他にも定型の問題、仮名表記や文語、口語の問題、声調の問題など様々あるが、正解はない。会員一人一人が考えていくべき問題である。それが作者の体内をくぐり抜けた言葉であると言えよう。



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