「写生の歌に就いて」は、1905年(明治38年)1月「馬酔木」(当時の根岸短歌会の機関誌)に掲載されたもの。文章の形式は箇条書きの覚書に近い。そこで一文を引用して、そのつど背景をまとめたいと思う。
最初に「左千夫は、子規と節の子弟関係を< 理想的愛子(まなご・愛すべき子ども)と呼んだ。・・・歌人としての節は、初期の万葉調から独自の写生の歌風に転じた」(岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」)ことだけ押えておく。
本文から。箇条書きなので、それに従う。
・万葉の歌は面白い。万葉から出たものも亦面白い。万葉の歌は主観的である。:
「万葉から出たもの」とは万葉の系譜を引く作品のことで、「万葉の歌は主観的である」というところがポイント。「客観的なものをそのまま詠む」のではなく、現在の言葉に直せば「モノを詠んで、そのモノに心を託す」というほどの意味であろう。見たものをそのまま表現しただけでは短歌にならないということだろう。
・万葉の歌は面白いが、いつでも万葉らしいものでは一定の模型を形つて(かたどって)しまふ所からとても見るに堪へられなくなる。:
・水は流動しなければ腐敗する。歌も一所に停滞すれば委靡銷沈するのは同一の理である。現在の趨勢は蓋しそれである。:
「模型」とは類型のことであろう。類型に陥らずに工夫をせよ、時には万葉調を離れよ、という意味であろうか。
・俳句の基礎は全く写生であった。歌が俳句と甚しく基礎を異にして居るべき理由はないやうに思ふ。:
「異にして居るべき理由はない」とあるから、歌に写生は相応しくないという論が根岸短歌会のなかにあったのだろうか。この一文で初めて「写生」の用語が出てくる。それでは長塚節の考えた「写生」とは何か。
・これまでのは客観とはいつても、主観を表はすための方便が大分であった。僕は暫く之を棄てて主観といふのも、客観が主となるものを作りたいといふのである。:
「主観を表はすための方便」とは、例えば山部赤人の「田子の浦ゆ・・・」の歌がただの叙景歌ではなく、「山誉めの歌」であったというようなことと関連があるのかも知れない。このあと「これ迄の方法は悪いといふのではない。唯飽きが来て居るのである。・・・僕のいふ所のものは未完成である。」とあるから、「実験作宣言」とでも言おうか。
・平淡清楚に傾く写生の歌も、行く行く各種の面白味が出来ることであらう。:
「行く行く・・・・」という所に、後年発表された「斎藤君と古泉君」につながる長塚節の論の前提を僕は思うのである。(「茂吉の宿題」参照。)
・六(むつ)かしい詞や装飾などは却ってない方がいいので、詠ずべき材料をば真面目に表すといふことが主になるのである。:
「六(むつ)かしい詞や装飾などは却ってないほうがいい・・・」とは、のちの斎藤茂吉の「単純化」佐藤佐太郎の「表現の限定」にあたる考え方だろう。
・写生といふ以上素(もと)より実況でなければ駄目である。現在に目に触れないものでも嘗て見たことのあるものならば宜しい。
「実況」というが、かつて見たものなら・・・というのは、後に与謝野晶子との論争で斎藤茂吉が述べたもので、この上に佐藤佐太郎が「詩的真実」を「新」として積み重ねたと言えるだろう。
・写生の歌は即ち所謂俳句の領域に一歩を生みこんだもので、俳句以外に別途の趣味を表はさむとするものである。:
・写生の歌を作るのは一草一木の微にも及ぶべきであるから、必ずしも田園生活に限るべきではないが、田園の風物は取って材料とするに便利である。:
「俳句以外に別途の・・・」は、佐藤佐太郎の「純粋短歌論」に見られる。「写生の発想は松山という地方都市から生れた」というのは正岡子規の評伝でしばしば言われるところである。
全体を見渡すと、この箇条書き風のもののなかに、後に斎藤茂吉や佐藤佐太郎によって具現化される歌論の祖型のようなものが見える。
(長塚節の歌論は岩波文庫では確認できないので筑摩書房刊「現代日本文学大系」をベースにして、岩波文庫「斎藤茂吉歌集」「斎藤茂吉歌論集」で確かめた。)
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