片桐顕智著「斎藤茂吉」の巻末の年譜によると、斎藤茂吉がアララギの編集に初めて関わったのは1911年(明治44年)。「大正3年まで」(1914年まで)。
中村憲吉宛て書簡には「僕が編集発行人になり、赤彦が大切やる事に古泉に話した。(ママ)・・・」(本村勝夫「斎藤茂吉」)とあるから、斎藤茂吉が最初にアララギの編集発行人になった時期と言っていいだろう。それまでは古泉千樫が編集にあたっていたが、どうも上手くいかずに発行がおくれがちになったことが原因だったようだ。これは、伊藤左千夫の最晩年から島木赤彦が一切を投げうち上京して(1914年・大正3年)、1915年(大正4年)に編集発行人になるまでの期間にあたる。(その後古泉千樫は「日光」創刊にかかわり、徐々にアララギや島木赤彦と距離を置くようになる。)
1911年(明治44年)と言えば伊藤左千夫が生活苦のなかで分筆活動を続けていた時期(堀江信男著「伊藤左千夫」)であるから、茂吉がかなり重い責任を果たしていたと考えられる。
1914年(大正2年)には伊藤左千夫はすでに亡く、5月には島木赤彦が上京、6月には古泉千樫宅より斎藤茂吉宅へアララギ発行所が移転。伊藤左千夫という重鎮が亡くなっただけに、アララギの危機だった。1915年(大正4年)には長塚節も亡くなり、「危機」はこの年の2月には島木赤彦が「編集発行人」となるまで、続いたようだ。
時間と出来事の前後関係がたいへん複雑なのだが、伊藤左千夫の最晩年から島木赤彦が編集発行人を引き受けるまで、齊藤茂吉は中継ぎの「編集発行人」としての役割を果たしたようだ。
茂吉が再び編集発行人になったのは1926年(大正15年・昭和元年)島木赤彦が亡くなった直後から、1930年(昭和5年)に土屋文明に編集発行人をバトンタッチするまでの期間。これも謂わばショートリリーフである。
斎藤茂吉には医師という生業があった。そこでこうなったとも言えるが、伊藤左千夫が「アララギ」に先立つ「馬酔木」の販売部数の伸び悩みに直面していたことを考えるなら、結社を維持するためには経営という側面を免れえないし、また編集を担うスタッフが不可欠。そして結社は教育機関としての性格を考えるならば、実力のある者が編集スタッフを支える体制も必要なのだ。
斎藤茂吉はその両方を担ったと言えよう。