『現代短歌』2015年6月号 「歌壇時評」
この記事の筆者は久保田登だ。批評の中心部分を引用しよう。
「(『短歌』『歌壇』『短歌往来』の三誌の若手歌人特集について)三誌を通観して思ったことは色々あるが、突き詰めて言えば、表現技術のこと。伝えたいことが伝わるように表現してなければ、独りよがりに終わってしまうという単純なことである。」
このブログでしばしば記事にしてきたが、表現の曖昧さと詩としての余情とは異なっている。何かわからないことが、もてはやされているような印象が強い。伝わらない表現は、作品が気分で終わっていることだ。
「永井祐の作品のどこがいいのか」と言ったのは、「かりん」の小高賢だ。「大きな声で言えないが」としつつ、永井祐や雪船えまの作品がどうして評価されるのか」と言ったのは高野公彦。
作品の意味が通じなければ、ただの言葉遊びとなる。
「角川短歌賞」の谷川電話の作品を、「俳句賞」の作品と比べて、「人間がえがけていない」と批評したのは馬場あき子。この時評では、小池光、佐佐木幸綱の「独りよがり、独り相撲」を批判した言葉も引用されている。
短歌は定形詩である。意味が通るだけでは作品にならない。新しい表現の開拓も必要だ。しかし抒情が明確に伝わらず、気分や雰囲気で終わっているとしたら、文学ととしての価値がない。
人間や社会を掘り下げる必要があるだろう。近代短歌との断絶を強調し、前衛短歌のレトリックのみを評価してきたツケが現代の歌壇の問題点として浮上しているのではないか。
引用された言葉のいくつかを書き出す。
「もう一歩、創作された具象が伴っていないと、作者個人の呟きに終わってしまい読者の心に強く作用しない。」(馬場あき子)
「もう少し作者と読者の間に共有するものがある歌であってほしい。」(小池光)
「もう少し逡巡、懐疑のようなカオスが見えなくていいのかな。」(佐佐木幸綱)
ここ数年の総合誌の新人賞の幾つかに、僕が感じてきたことを、歌人たちが言い始めたようだ。