「現代の詩としての短歌を求めて」 「運河」370号より
昨年の10月より、「詩人の聲」というプロジェクトに参加している。
これは詩人一人あたりに一時間の時間を設け、詩人は自作の詩を、時間いっぱい音読し続けるもの。以前フェイスブックの友達から招待を受け、聞きに行ったことがあった。そののち体調の関係で、しばらく聞きに行かなかったが、昨年の9月の柴田友理という詩人の声を聞いて、自分も参加したくなった。思いを決して、プロジェクトのプロデューサー、天童大人という詩人に申し込んだ。
「私は短歌を定型の現代詩と思っていますので、参加させていただけませんか。」
第二芸術論のこともあって、詩人と認められないかと思ったが、答えはイエス。参加するのが認められた。
このプロジェクトには一つの約束事がある。それは旧作より読み始めるということだ。つまり旧作がいかに稚拙だったかを作者に思い知らせるということだ。その上で現在の自分の体内から湧き上がるリズムを掴む。そして進展をはかる。こうなると公演だけでなく道場だ。「詩人を鍛える道場」とでも言おうか。
自作を一時間声に出して読み続けるというのは、かなりハードである。最初の一、二回は首筋が痛んだ。「それは詠む時に余計な力がはいっているからだ。」と教えられた。
三回目あたりから、無理なく声が出せるようになった。そこに至るまでに、腹筋のトレーニング、発生練習などをした。
短歌の新作を作る時には、何度も声にだす。(舌上百篇という言葉がある。)
しかし、一時間読み続けるということは、これらとは根本的に違う。一時間で、百五十首近くを三回ずつ読む。すると駄作と成功作との違いが明確になってしまう。声の響きや、通りが全く違うのだ。理屈でなく声の通り、つまり自分の体が選歌をするのだ。今は第二歌集『オリオンの剣』を音読しているが、第一歌集の収録歌は、今から考えれば、五分の一も取れないのが身を以って感じられる。
この体験は私自身の大きな財産となった。「運河」に入会して多くのことを教えられた。その最たるものは「現状に甘んじてはいかん。常に新しいものを目指せ。そのためには歌論が必要だ。」という長澤一作元代表の言葉。それと、「自由な発想でどんどん詠んで、どんどん捨てましょう。」という尾崎左永子氏の言葉。
この二つの言葉を「導きの糸」として作歌している。歌論については『斎藤茂吉と佐藤佐太郎』の出版で一区切りついた。
正直言えば、「たくさん捨てる」の捨て方が分からなかった。そこで新作はすべて、発表前にこのプロジェクトに載せることにした。そして改作するもの、獲るもの、捨てるものを決めることとした。
一回に百五十首もの作品を読むのだから、新作もどんどん作らねばならない。詩人たちの知り合いも増えた。創作意欲が湧き、創作の方向性、段取りが確立し、知人が増え、他の詩人の公演も含め、都内の画廊をとびまわる。
これで、私の「うつ病」の症状は消えてしまった。勿論、医師の指示があり服薬は続けている。声に出すのは、健康にもいいらしい。
プロジェクトに参加している詩人の一人は、こう言う。
「作品を聲にのせよ。そして自分の作品が韻文か散文かを体で感じとれ。」と。