岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

2011年私の10大事件

2011年12月30日 23時59分59秒 | 作歌日誌
2011年(平成23年)もそろそろ終わり。1年の総決算の「僕の今年の10大ニュース」。勿論、短歌に関して。


1・第2歌集「オリオンの剣」を上梓したこと。

 結社の枠を超えて手紙や葉書を頂いた。思わぬ発見があり、喜びでもあった。歌集の上梓は、300首あまりを創作しなおすことに他ならない。特に「何故」を短歌に表現しない、佐太郎短歌の特質が「自己凝視」と不可分なことが、他の結社の歌人との往復書簡で実感できたのは収穫だった。「短歌の私性(わたくしせい)」を佐佐木幸綱などが論じている時でもある。自分の意見を実感として捉え直すことができたのには意義がある。


2・「運河」誌上でほかの結社の方から批評を頂いたこと。

 ここでも重要な発見があった。原稿依頼のことで通信のやりとりをしたが、その中で自分の依って立つものを再発見した。深まったと言うべきか。ここでも「礼儀正しく」批評された。誉められるばかりではなかったが、こういうのは有り難いことだ。僕自身の病気による体力の衰弱をなんとか乗り切る力ともなった。「運河」の「『オリオンの剣』特集」は7月号。暑い夏、しかも節電の夏はきつかったから。


3・「星座α」の6回の歌会のうち5回に参加できたこと。

 斎藤茂吉と佐藤佐太郎の歌論と実作を、いかに「現代に生かすか」。実際の作品を前にしての研究会だった。僕は「選者団」のひとりで、尾崎主筆の手伝い役だが、選者たちの作品も批評に容赦はない。出席するたびに大きな刺激を受けた。佐太郎を囲んでの初期のころの雰囲気がこのようだと尾崎主筆に言われた。佐太郎から継ぐべきものを存分に学んだ。僕は「選者団」のひとりで、最初に発言を求められることが多かったが、「選者」にとっても歌会は学びの場である。


4・「運河」「星座」「星座α」ともに欠詠しなかったこと。

 一見平凡なようで案外重要。「期間は不定だが、ある長さの期間にわたり作り続けること。たとえ、結果としていいものが出来なくとも、作歌を持続し、反復表現しつづけること」(岡井隆「短歌の世界」)。尾崎左永子「現代短歌入門」、島田修三「短歌入門-歌集出版までの5つのステージ-」などにも同じことが書いてある。いわば「基本中の基本」ということだろう。何年経っても基本はかわらない。


5・「角川短歌」10月号に新作を発表したこと。

 作歌日誌に書いたが、発表する側の責任を「背筋が寒くなるほど」感じた。初めての経験だった。ある意味の「表現の怖さ」でもある。社会詠のあり方についても考えさせられた。


6・入院し生と死とについて考えさせられたこと。

 2月末に入院。危うく落命するところだった。ちょうど歌集の反響の手紙や葉書が届き始めた頃だったので、「くやしい」を連発しながら車椅子で病棟へ。退院の日が3・11、東日本大震災の日。激しい揺れのなかで、「このまま死ぬのか」と思った。不思議と動揺はなかった。ほぼ同時期に「生への執着」と「諦念」を実感した。このような事は、二度とないだろう。


7・「角川短歌」「短歌現代」に書評が載ったこと。

 ここでも発見がいくつもあった。とにかく人に批評してもらうのは「値千金」だ。誉められてばかりではなかったが、「それもまた嬉し」であるとともに貴重な体験だった。「実力があるという前提だが、終止形で終る作品が多く、やや息苦しかった」という批評は、第三歌集に活かさせて貰った。


8・第57回「角川短歌賞」の予選通過したこと。

 応募600篇のうち35篇にはいった。もちろん嬉しいが、これをきっかけとして、表現上の問題でひとつ「腹をくくった」。だれに何と言われようが「これだけは」というものが、いくつか見つかった。


9・佐藤佐太郎関係の書籍を先輩から、段ボール一箱頂いたこと。

 佐藤佐太郎関係の基本的文献がほぼ揃った。今は手にはいらないものも多くあり難かった。初めは「お借りしますということで」と遠慮していたのだが、書名を聞いているうちに、「あ、それください」といってしまうほどだった。歌友ならぬ「先輩」を持てたのは貴重だった。何せ僕が生まれる前から、短歌に取り組んでいる人だから。


10・「運河」の「東京歌会」「かながわサロン」に欠席しなかったこと。

 これも重要毎回新しい発見がある。ネット歌会では、おそらく望むべくもないことだろう。別にネット歌会が悪いとは言わないが、相手の顔が見えるのは大切なことだ。かなり厳しい意見を言ったり言われたり。面と向かってこそできることだと思う。


 これのほとんどは、結社・同人誌に参加している効用だ。斎藤茂吉は次のように言う。

「(精神を凝縮せしめず)その過程の苦心を経過せずして、すぐさまその結論だけに飛びつくのであるから、自然出来たものが軽薄になるのである。」(「短歌初学門」)

「事象にぶつかって、変な心持になって歌でも作らうとすると、其心持というのは取留のないぼんやりしたもので、如何表はしてよいか分らぬ。・・・その時その心持をじっと把持して三四日経つと、朝霧が晴れて美しい太陽が見えて来る様に、心持の核点とでも云ふ様なものが偶然心に浮んで楽に歌が詠める場合が多い。」(「童馬漫語」)

 苦心しているものを歌会にだすと、そこでパッと開けたように的確な言葉が出てくる場合が幾度もあった。これが「顔の見える歌会」の一番の効用だろう。


 岡井隆は「斎藤茂吉と塚本邦雄を、作歌に当たっての『導きの杖』として」(「歌を創るこころ」)と言うが僕の場合は「斎藤茂吉と佐藤佐太郎を『導きの糸』として」だ。


 別に難行苦行せよとなど言うつもりは、さらさらないが、短歌がそう簡単なものでないことも事実だ。

 昨年の「短歌研究新人賞」の佳作となった人が、短歌に関わりのない仲間から「川柳作家」と言われている。これはゆゆしきことだ。短歌の文学性が失われている。来年を期そう。(鬼よ笑え!)




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