1923年(大正12年)9月1日。相模湾沖を震源とする大地震が発生した。関東大震災である。マグニチュード7.9。首都壊滅といわれ特に東京、川崎、横浜、神奈川県内の被害が大きかった。首都機能は麻痺した。
斎藤茂吉はドイツ留学中。すでに記事にしたが、新聞でこれを知り、伝聞で短歌作品を残している。しかし岩波文庫「斎藤茂吉歌集」には収録されていない。
この時に重大な流言蜚語が飛び交った。(これは風評・噂といった気分的なものでなく、民族差別に基づく虚偽、意図的な流言飛語で、しかも暴力的なものだった。民間人によるテロとも言える。)
「朝鮮人が井戸へ毒を投げ込み、暴動をたくらんでいる。」
これは当時寺田寅彦が述べたようにデマに他ならなかった。
「この混乱時に、なぜ朝鮮人だけが連絡を取り合えるのか。東京の一割の井戸に、水を一杯飲んだだけで死に至らしめるほど多量の毒を入れるのに、どれだけの薬物が要るのか。東京の要所を襲撃するのにどれだけの爆弾と労力が要るのか。」
ところが警察はこれを事実と信じて応戦体制をとった。青年団・在郷軍人会・消防組を中心に日本刀・棍棒・竹槍・木刀で武装した自警団が作られた。その数東京に6000以上。
朝鮮人と見るや、片っぱしから捕え、暴行・虐殺に及んだ。死者は朝鮮人6000人、中国人200人、日本人も59人巻き添えで(朝鮮人と間違われて)殺害された。
俳優の千田是也は当時早大の学生だったが自警団に捕われ、学生証を見せたが信用されず、危ういところだった。顔なじみの酒屋の店員がいて事なきをえた。この苦い経験から「センダガヤのコレアン(朝鮮人)」を芸名・千田是也とした。
ところが、これが収まったあと別の流言蜚語が飛び交う。軍隊は混乱に乗じて社会主義者の弾圧の方針をもっていた。これを背景とした流言飛語は次のようなものだった。
「(もともと存在しなかった)朝鮮人の暴動の裏で社会主義者が糸を引いていた。」
これによって大杉栄夫妻・河合義虎らが虐殺された。主犯の甘粕大尉は軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、三年で仮出所。満州に渡り、満州映画会社の理事長に収まった。軽い処罰である。(亀戸事件・甘粕大尉事件)
こういった流言飛語による「白色テロ」は、のちに相次ぐ軍部によるクーデター計画や5・15事件、2・26事件に繋がっていくとされる。
経済への打撃も大きかった。いわゆる震災恐慌である。これに金融恐慌・世界恐慌が続き、「満蒙の権益」がことさら叫ばれるようになり、日本は戦争による中国侵略へと進んでいく。よく戦争の原因を「ABCD包囲網」に求める人がいるが、それは日米開戦のきっかけであって、満州事変の原因ではない。しかも日米開戦は満州事変・日中戦争の延長線上にあるのである。
最後に注目しておきたいことがひとつ。関東大震災は大正デモクラシーという文化学問の民主主義的傾向と長引く不況のなかで起った。「国民がぜいたくに慣れ政治が悪いため天罰が下ったのだ」といった風潮があらわれ、世の中の動きは思想統制を許容する方向へ向いていった。今回の「東日本大震災」でも「国民のライフスタイルの見直し」という議論が一部でなされている。関東大震災とは単純に比較できないが、心に留めて置くべきことだろう、と思う。
大震災・流言飛語・テロ・経済恐慌はのちの日本の進路を左右するきっかけとなった。戦争への道である。しかし人類は進歩するもの。今回の震災では、原子力災害を含めて、外国諸国の協力・支援がある。経済のうえでも、円高を防ぐ協調介入などが国際的に行われている。またG7・G20の会議でも「東日本大震災」のことが議題になることが決まった。
つまりどの国も、おのれ一国のことだけを考えていられない時代なのである。今年のサミットの冒頭、日本の首相が福島の原発事故について発言することが決まった。世界各国の政府やNGOの実際の支援も数十を超えた。戦前では考えられぬことだ。
僕はこの辺に未来への希望があるように思う。岡井隆のいう「国民や国家のありかたが変わる」時が近づいている様な気がしてならない。
*付記・参考文献:金原左門著「昭和への胎動」、遠山茂樹ほか著「昭和史・新版」、鹿野正直著「大正デモクラシー」、今井清一著「大正デモクラシー」、江口圭一「二つの大戦」。