岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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勝って悲しむ歌:寺山修司の短歌

2011年06月09日 23時59分59秒 | 私が選んだ近現代の短歌
・そそくさとユダ氏は去りき春の日に勝ちし者こそ寂しきものを・

「血と麦」所収。

 勿論これは写実短歌ではない。しかし印象鮮明であり、暗示的である。言葉のつながりや意味も明快で、暗喩なども使っていない。

 斎藤茂吉の言葉に次のようなものがある。数字は岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」のページ。

「(森)鷗外は印象派を感銘派と訳し、それを< 写生派 >と云つてゐるのである。」(「短歌初学門」)295

「正岡子規は、かつて< 明治29年の俳句界 >と云ふ文章を書いた。・・・その特色のひとつは< 印象明瞭 >といふことである。」(「短歌に於ける写生の説」)117

「何かを暗指する抒情味で・・・複雑な葛藤をば、一面では落付いて克明にあらはして居り・・・」(「長塚節の歌」)200

 何も「寺山修司の作品は< 写実 >だった」などと強弁する積りはない。ここで言いたいのは、寺山修司のこの作品が三十一文字の短詩の条件を十分満たしていることである。

 何でもかんでも齊藤茂吉と結びつけるなというなかれ。詩としての作品評価をしようとしているのである。

「写実派」と違うのは「ユダ氏」という表現だろう。暗喩とみてもいいが、むしろ「卑怯者・裏切り者・姑息な者」を普遍的に表現するものと考えた方がいいと思う。「写実派」であれば、

・その男急ぎて去りき春の日に勝ちし者こそ寂しきものを・

とでも表現するだろう。それでも「春の日に」が「脈絡がない」という批判がでるかもしれない。しかし批判はおそらくそこまでだろう。すると、やはり、寺山修司のこの作品が「写実短歌」とそう離れていないことに気づく。

 では表現内容はどうか。この作品を読んで僕は「論争に勝った歌」と受け取った。それも勝ったあと、一抹の寂しさを拭えないという人間関係の機微というある種の普遍性を詠っている。だから、読む者の心を打つ。

 以前から思っていたのだが、「前衛短歌」とひとくくりにしても、岡井隆や塚本邦雄と比べて、どこか寺山修司だけ違っているように感じていた。

 それは一読して意味が通じるからだ。寺山修司が暗喩を使わないからだろう。なぜか。寺山修司は俳句から短歌に転じた。俳句では暗喩は使わない。

 そういえば正岡子規も俳句から短歌にはいっているが、そんなところにも案外共通点があるかも知れない。






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