・過去帳を繰るがごとくにつぎつぎと血すぢを語りあふぞさびしき・
「石泉」所収。1932年(昭和7年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」162ページ。
茂吉の自註。
「先程(歌集収録の35首前の作品)の< 涙のいづる如き話 >のうちのは、かういう血すぢにも関係しているのもあった。」(「作歌40年」)
さらに作品の背景も残っている。
「昭和7年・・・。夏、舎弟高橋四郎兵衛とともに、北海道の次兄守谷富太郎を訪ひ、志文内から稚内・真岡・豊原・層雲峡・深川・釧路・阿寒湖・根室・支笏湖・苫小牧・白老・登別等に遊び、帰途十和田湖を見た。」(「石泉・後記」)
話の中心には父母のことがあったという。この辺に茂吉の「情の濃さ」のようなものが見える。
佐藤佐太郎はこう言う。
「日記に< 十六七年ブリノ会合ナリ >と記している。次兄守谷富太郎と末弟高橋四郎兵衛< 直吉 >と兄弟三人が会合してしみじみと話した。母父のこと、去年死去した長兄守谷広吉(伝衛門)のこと、生きている妹斎藤なをのこと、・・・灯の光を分けあい、影を並べて一夜をすごしたのであったろう。・・・一二句に、静かで涙のにじむような親しさがこめられている。」(「茂吉秀歌・上」)
また塚本邦雄はこう言う。
「この北海道の次兄守谷富太郎は、昭和25年10月18日に他界した。作者はこの日から頓に沮喪して、左側不全麻痺症を呈するやうになったほどである。」(「茂吉秀歌・つゆじも~石泉・百首」)
茂吉の「死にたまふ母」(「赤光」)は有名だが、とりわけ肉親の生死に関しての嘆きは深かったらしい。
この一首でも「過去帳を繰るがごとく」という比喩と、結句の「さびしき」の主観語がこう言った情感を十分に表現して余る。「過去帳」という語を使ったところが、熱心な仏教徒の家に生まれた茂吉らしい。