岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

齊藤茂吉43歳:焼けあとで納豆餅を食う

2010年08月21日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・やけのこれる家に家族があひよりて納豆餅くひにけり・

 「ともしび」所収。1925年(大正14年)作。「納豆餅」は「なっとうもちひ」と読む。

 これも茂吉にしては珍しく、字足らずの一首である。それも6・7・5・7・5の破調。度外れた破調である。

 茂吉の言うところを聞こう。

「みづから哀れな歌である。結句の字足らずも手帳的であるが、たまにはかふいふ手法も必ずしも厭ではない。」(「作歌40年」)

やはり、自信作ではないようである。茂吉は多作(一万数千首・・・岩波文庫:佐藤志満編「佐藤佐太郎歌集」あとがき」)だったが、こういう作品が紛れ込んでいるから、面白い。

 さて、どう評価するか。佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」・長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」には全く触れられていない。やはり、とんでもない破調と字足らずが、評価を低くしているのだろう。「佐太郎門下は定型に収めることにこだわりがある」とは僕が「運河」に入会する前の、ある総合誌にあった言葉。茂吉自身も「手帳的」であるといっているところから、「試作品・未完成品」と感じているのだろうか。おそらく「必然性のない字足らず」との評価であろう。

 ところが、塚本邦雄は「茂吉秀歌・つゆじも~石泉」のなかで注目している。曰く、

「< 納豆餅 >なども、作者は、いつもならば「納豆餅を食ひにけるかな」くらゐに整へるだらう。だが整へてゐる心理的なゆとりもない。二音欠落のまま、突然歌は断たれる。・・・巧まざる巧みであらう。」

 僕は、「食ひにけるかな」とせず、「食ひにけり」と二音落としたところに、表現上の茂吉の迷いを感じる。「食ひにけるかな」では整いすぎている。「食いにけるかも」では大袈裟過ぎる。上の句を「家族とあひよりて」としたうえで、「食いたりわれは」とする方法もある。

 歌集発行の1950年(昭和25年)は、定型への批判」が歌壇の外部から上がってきたころである。そこであえて二音欠落のままにしたような気がするのだ。「未完成」といえばその通り。あわただしく歌集を出版した事情もあるだろう。

 つまり、

「定型でなければこういう方法もある。推奨はできぬが。」というところだと思う。

 「ともしび」にはこのような作品が、多々みられる。これは短歌をとりまく環境のなせる技であり、茂吉としても自信をもって発表したものではないだろう。

 岡井隆が「ともしび」を茂吉の代表歌集とし、それを「医学や生活の挫折」にむすびつけているのに対し、僕が俄かに賛成しかねるのはそういった理由からである。








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