岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「うた新聞」10月号に短歌2首とエッセイを発表します

2014年09月11日 23時59分59秒 | 作歌日誌
「いりの舎」から原稿依頼が来た。今回は「忘れないために」というコラムの執筆と、内容に即した短歌作品の依頼である。

 2001年10月7日に、アメリカを中心とした多国籍軍のアフガニスタン空爆が始まった。この戦争が始まるとき、当時のブッシュ大統領が、アメリカ議会で演説をした。僕は短歌を初めて間もなかった。

 しかしその日のことは鮮明に覚えている。まるで世界の正義を体現したかのように、大統領は演説していた。

 「イスラム社会に対する宣戦布告だ」と思った。


 当時の日本政府は、自衛隊を派遣するようにとのアメリカの要請を断った。そして資金援助のみ行った。「集団的自衛権は日本国憲法9条に照らして行使できない。」との政府見解があったからだ。

 それから、イラク戦争などアメリカの軍事行動が、中東地域で行われている。「国際貢献」のために日本も自衛隊を派遣すべきだと、声高に叫ばれるようになった。

 「資金だけではいけない」、「旗を見せろ(SHOW THE FLAG)」「戦場を軍靴で踏め(BOOTS ON THE GROUND)」とアメリカから言われ始めた。アメリカの元国防次官補のアーミテージ報告では、日本に今以上に軍事的負担をするように要求するなど、対日圧力が強まっている。ここに軍国主義の予兆を感じるのは僕だけではないだろう。

 そして数年後、重武装した自衛隊がイラクに派遣された。復興支援が名目だが、事実上の海外派兵だった。その頃の僕は『短歌』誌上に社会詠の実験作をペンネームで投稿していた。

 社会詠は抒情詩にならないといわれる向きもあるが、戦争もテロも、合法的、非合法的を問わず、大義があろうがなかろうが、人間を殺すことに違いはない。そういうことを厭うのは、人間の自然な感情だ。この原稿依頼に応えるのを通じて、明確に意識するようになった。


 「反戦歌は抒情詩となる可能性を秘めている。」





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