・行春(ゆくはる)の雨のそそげる山なかにためらふ間なく葉はうごきけり・
「寒雲」所収。1937年(昭和12年)作。
日中全面戦争が7月にはじまる。まさにその年の「行く春を惜しむ歌」である。
「木芽」と題された連作のうち、叙景歌より一首、抄出した。この連作の「特異性」についてはあとで述べる。
この叙景歌のみどこるは4句目だろう。「ためらふ間なく」の擬人法が活きている。どう活きているかといえば、「行春」つまり晩春の若葉の勢いを見事に表現しているからである。
短歌に擬人法は馴染みにくい。遠まわしのいいようになったり、わざとらしくなるからだ。その点、この一首の中の「ためらふ間」という表現は、新緑の生命力を表現して余りあるし、「ためらふ・間」という4音・1音の構成も一首を引き締めるはたらきをしている。
もしこの4句目がなかったら、平凡なものになるだろう。また土屋文明や島木赤彦はこういった表現は一切しない。そういう茂吉らしさが現われている。
ところで、この連作の特色。時間と空間とを越えた作品が混ざっていることだ。14首からなる連作のうち、3首が過去、これをまるで現在のように詠っている。「マリア・マグダレナ」が「北平の駱駝」がこれにあたる。
茂吉は「この種類の連作をも連作として許容しても好からうといふのがこの連作の特徴であった。」(「作歌40年」)と言うが、「感覚で繋ぐ」という「群作」という手法は一つの発明には違いない。
さらに面白いのは、塚本邦雄と弟子筋の歌人がこの連作の中からどの一首を抄出するかが顕著に異なるのだ。
この連作は茂吉の箱根の山荘で詠まれたものだが、塚本邦雄は遠い彼方のものを評価し、佐藤佐太郎と長沢一作とは叙景歌を評価する。
塚本邦雄の「茂吉秀歌・全5巻」と、佐藤佐太郎の「茂吉秀歌・上下」、長沢一作の「斎藤茂吉の秀歌」とを読み比べる面白さはここにある。
弟子筋の歌人は叙景歌を選び、塚本邦雄はまるで幻のような時間と空間とを異にする作品を選ぶ。写生写実派の歌人とサンボリズムの歌人との作品の違いもわかるようだ。(ん?塚本邦雄と佐藤佐太郎は「異母兄弟」か。)
佐太郎好みの叙景歌には以下のものがある。
・夜をこめて曇(くもり)のしづむ山峡(やまかひ)に木芽(このめ)はいまだととのはなくに・
・山なかに雉子(きぎす)が啼きて行春(ゆくはる)の曇(くもり)のふるふ昼つ方あはれ・
・花の咲く馬酔木(あしび)のかげに吾が居れば山の獣(けだもの)
やすらふごとし・
やたら( )が多くなったが、言葉や表記が古いのは仕方がない。斎藤茂吉も近代短歌・古典の範疇にはいるのだろう。21世紀の今となっては。