岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

短歌の道しるべ(4)

2012年11月01日 23時59分59秒 | 作歌日誌
「短歌の道しるべ(4)

◎今月のワンポイント(7月)

*短歌の「古めかしさ?」(その1)

 私が歌集を出版したときに、「短歌ねえ・・僕の生きている世界とはだいぶちがうな」と言った人がいました。また別の人からは、「短歌?また古風な趣味を持っていますね。」とも言われました。

 「短歌=古い・型にはまって窮屈だ」と思っている人はかなり多いようです。例えば、自宅の本棚に、コミック・実用書・写真集・仕事に関わる専門書・小説はあるでしょうし、文学好きの本棚には詩集も何冊かはあるかもしれません。しかし、歌集は?おそらく持っている人はまれでしょう。「短歌は古い」という偏見?があるように思うのですが。そこで次に、短歌の「古臭さ」を感じさせるいくつかの点をあげて、考えてみたいと思います。

(これは、私個人の考え方です。歌人のなかにも色々な考えの人がいますから。)

:文語:数十年前までは「けり」「かも」などがよく使われました。それでも違和感羽大してなかったようです。新聞記事・手紙・個人の日記も文語で書かれるのが珍しくなかったからでしょう。しかし、今は生活の全てが口語ですから、文語は日常感覚とあわなくなってきたように思います。

 しかし、今でも過去をあらわす終助詞(「き」「つ」)、完了継続をあらわす終助詞(「ぬ」「たり」「り」)、詠嘆をあらわす終助詞(「も」)、疑問をあらわす終助詞(「や」)などは使われるのが珍しくありません。音数の調節とともに、ある種の「奥行き」「厚み」「余韻」を表現できるからでしょう。しかし、ことさらに「古い言葉」を使うとおかしな感じになってしまうと思います。

 ですから私は、無理に文語を使わないことにしています。感嘆の終助詞「けり」「かも」「ゑ」「や、文末に「はも」を使う歌人はほとんどなくなってきたようですし、私も使ったことはありません。

 佐藤佐太郎の作品は文語で詠まれていますが、文語がそれほど目立ちません。佐太郎が若い頃、つまり昭和初期には大変フレッシュだったに違いありません。

*近代の名歌(3)*

◎最上川逆白波(さかしらなみ)のたつめでにふぶく夕べとなりにけるかも 斎藤茂吉

◎沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨降りそそぐ          斎藤茂吉

◎茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠(とう)のこがらし   斎藤茂吉







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