「短歌の道しるべ(4)
◎今月のワンポイント(7月)
*短歌の「古めかしさ?」(その1)
私が歌集を出版したときに、「短歌ねえ・・僕の生きている世界とはだいぶちがうな」と言った人がいました。また別の人からは、「短歌?また古風な趣味を持っていますね。」とも言われました。
「短歌=古い・型にはまって窮屈だ」と思っている人はかなり多いようです。例えば、自宅の本棚に、コミック・実用書・写真集・仕事に関わる専門書・小説はあるでしょうし、文学好きの本棚には詩集も何冊かはあるかもしれません。しかし、歌集は?おそらく持っている人はまれでしょう。「短歌は古い」という偏見?があるように思うのですが。そこで次に、短歌の「古臭さ」を感じさせるいくつかの点をあげて、考えてみたいと思います。
(これは、私個人の考え方です。歌人のなかにも色々な考えの人がいますから。)
:文語:数十年前までは「けり」「かも」などがよく使われました。それでも違和感羽大してなかったようです。新聞記事・手紙・個人の日記も文語で書かれるのが珍しくなかったからでしょう。しかし、今は生活の全てが口語ですから、文語は日常感覚とあわなくなってきたように思います。
しかし、今でも過去をあらわす終助詞(「き」「つ」)、完了継続をあらわす終助詞(「ぬ」「たり」「り」)、詠嘆をあらわす終助詞(「も」)、疑問をあらわす終助詞(「や」)などは使われるのが珍しくありません。音数の調節とともに、ある種の「奥行き」「厚み」「余韻」を表現できるからでしょう。しかし、ことさらに「古い言葉」を使うとおかしな感じになってしまうと思います。
ですから私は、無理に文語を使わないことにしています。感嘆の終助詞「けり」「かも」「ゑ」「や、文末に「はも」を使う歌人はほとんどなくなってきたようですし、私も使ったことはありません。
佐藤佐太郎の作品は文語で詠まれていますが、文語がそれほど目立ちません。佐太郎が若い頃、つまり昭和初期には大変フレッシュだったに違いありません。
*近代の名歌(3)*
◎最上川逆白波(さかしらなみ)のたつめでにふぶく夕べとなりにけるかも 斎藤茂吉
◎沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨降りそそぐ 斎藤茂吉
◎茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠(とう)のこがらし 斎藤茂吉
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