「運河」366号 作品批評
(単線の駅の歌)
(深山に食う岩魚)
(岐阜国体の歌)
(たい肥を鋤きこんだ畑の霜柱)
(ビルの向こうに見える教会)
地方色のあるものと、都市の景観を詠んだ作品に焦点を当ててみた。地方には地方の、都市には都市の景観があり、その表現にも差異があるはずである。
以前「運河往来」にも書いたが、かつて斎藤茂吉と古泉千樫の作風が似ていると長塚節が述べていた。都市の尺度で地方を見てはならないし、その逆もまた真である。
(薄の太い株を今日切る歌)
(美ヶ原の牛と白山風露の花)
叙景歌を二首挙げた。叙景歌は情景を表現するものだが、情景とは即ち「心の景」だ。単なる叙景歌と言う勿れ。「短歌は詩だ」「詩とは抒情詩である」と佐藤佐太郎は『純粋短歌論』で述べているが、心には形がないだけに目に見える物に心を託す必要がある。
その物事=具象的なものが普遍的な意味合いを持ち、それを暗示する時、その具象的なものは心の象徴となる。
(一人居に夕餉の支度に物を煮る)
「侘し」の主観語を使った心理詠を一首挙げた。島木赤彦は主観語を極端に排除したが、そういうことに拘る必要もあるまい。
斎藤茂吉が伊藤左千夫から「理想派」と呼ばれたのは良く知られているが、この特徴は後に「汎神論的写生」と名付けられたのを考えれば、形のない心理詠も又、写生であるといえる。掲出の一首は作者の孤独感を表現して余りある。
一月号の締切日は十月二十日であった為か夏から秋へという季節感のある作品も多かったように思う。
(終い忘れた風鈴の歌)
(酷暑の続きが虫の声に変わる歌)
叙景歌の中に必ずしも季節感がなければならないとは限らないが、季節を的確に捉えることもまた作品の幅を広げる。
冬の日に眼に満つる海あるときは一つの波に海はかくるる
(佐藤佐太郎)
この作品の成立背景は、既に明らかなように夏から秋にかけての海を詠ったものである。その体験を基に、冬というフィクションを入れることによって、短歌の詩としての効果が数段上がった。短歌における季節感とはそういうものであろう。
短歌に思想や歴史を盛り込めないと考えている会員が多いようだが、そんなことはないのだ。「現代の社会や思想を盛り込みにくいとは言えるけれども、現代の優れた歌人はそれに取り組んでいる。盛り込めないように言うのは非力な批評家か怠惰な歌人である。」(『純粋短歌』宝文社刊(初版本))
社会や思想・歴史も短歌の素材足りうるのである。しかしそれは、詩としての言葉の昇華がある場合だ。それがなければ「新聞の見出し短歌」になってしまう。
(水喧嘩の歴史を詠んだ歌)
また心理詠の一つとして境涯詠がある。佐藤佐太郎の作品でいうと『星宿』に秀歌が多く見られる。しかし「老い」を嘆く、即ち詠嘆することと愚痴は異なる。その老いを詠った境涯詠を挙げる。
(米寿の歌)
また会員諸氏に考えて頂きたいことの一つに固有名詞の問題がある。
(玄界灘の歌)
(琵琶湖の歌)
二首とも地名が一首の格を落としている。斎藤茂吉も佐藤佐太郎も地名はここぞという時に使っている。固有名詞は情感を固定してしまうからだ。
(裏川のうぐいの歌)
この作品には固有名詞がはいっていない。おそらく町中を流れる川なのだろうが、「裏川」とだけ記されていて、具体的な名前は表現されていない。固有名詞が「捨象」されているのである。これが佐太郎の言う「表現の限定」である。
その他、注目した作品を採り上げる。
(八町平野の稲刈りの歌)
八町平野と言うのは、おそらく地名であろうが、この場合は固有名詞が効いている。即ち、固有名詞が良くないのではなく、要はどのように使うかが問題なのだ。「八町平野」の語は、単なる地名というより、広々とした水田風景を鮮明に表すのに良い働きをしている。
(夜明けの漁火の歌)
時間、場所、作者の位置、情景がしっかり表現されている。漁業関係者でなくとも鑑賞出来るところに普遍性がある。
(夜中の雨だれを聞く歌)
眠れない作者。しかし、「眠られぬ」と直接には表現されていない。暗示も詩の味わいであると佐太郎は度々言っている。