・彼の岸に到りしのちはまどかにて男女(をとこ)のけじめも無けむ・
「暁紅」所収。1935年(昭和10年)作。
先ずは語意から。
「彼の岸」:いわゆる「彼岸」で、三途の川の向こう岸のこと。向こう(彼岸)が死後の世界で、こちらの岸が「此岸(しがん)」、つまり現世だ。
「まどか」:円、まんまる。ここでは「やわらか」「なごやか」「すこやか」といった意味。
「けむ」:推量の助動詞。「~だろう」「~だったのだろう」。
歌意。
「死んだあとは何の支障なく、男女の区別もなかろうに」となる。
熱心な仏教徒(時宗・じしゅう:鎌倉時代に一遍が説いた「念仏集」で、踊り念仏を特徴とした。その踊念仏が盆踊りの期限といわれる。)の家に生まれた茂吉らしい作品だ。だが狭義を説くのではなく、「彼岸」という一般に使われる言葉を使って、「死後は男女の区別もなかろう」と普遍的に詠っているので、文学的価値があるのだ。そうでなければ「御詠歌」「道歌」になってしまう。
「短歌と道歌が違うと言ったのは斎藤茂吉。「短歌と御詠歌が違う」と言ったのが佐藤佐太郎。特定の宗教色が濃ければ広い読者の共感は得られない。巨大教団の場合は別だが。
茂吉の自註。「作歌40年」にも歌集の巻末記にも何もない。茂吉にすれば当然過ぎるほどの心情だったのだろう。
だが、佐太郎と長沢一作は次のように評価する。
「男女の区別のあることによって起る現世の愛憎葛藤の、そういうしがらみももうないだろう、というのである。『彼の岸に到りしのちはまどかにて』にはその平安を願うかのように思い見る気持がこもっている。」
「背景にある永井ふさ子との交渉を思わざるを得ない。とすれば、この一首も一般的感想としてのみ、うけとるわけにはゆかない。発想の底に、それ以上の真率な詠嘆が聞こえているといってもよいだろう。」(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)
「現実は複雑深刻なのだが、ときにその煩雑に耐えがたく思うこともあるだろう。歌は心境をただちに表白したので具体的実質というものはないが、言葉にひびきがある。悲しく寂しいがどこか甘美といってもいい潤いがある。」
「作者は前年(昭和9年)秋はじめて永井ふさ子を見て、以来恋愛関係に移る過程にあって懊悩(おうのう=なやむ)する日があったと思われる。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)
ほぼ同じだが佐太郎のほうは背景を「おぼろげながら」と言っているのが違いである。
なお、永井ふさ子の関しては、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」の資料1に概観があり、本文中に妻・てる子の「ダンスホール事件」の説明もある。茂吉と輝子婦人との確執は藤岡武雄「茂吉評伝」に詳しい。