昨日の記事は「茂吉・魚の命を詠む」だったが、今日は同じ素材の佐太郎の作品。
・いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚・
「群丘」所収。1956年(昭和31年)作。
「魚の色は何色ですか」と尋ねられて、即座に答えられる人はいないだろう。もちろん正解はない。理屈を言えば、魚の種類によって色は違うからである。
したがって、この作品の「詩的把握」の核は下の句の「光のごとき色をもつ魚」である。
「命」「魚」と素材は茂吉の前作と同じだが、違いが諸所に見える。
まず、「焼いている魚」(これはおそらく茂吉自身の火難からの連想であろうが)ではなく、「生きている魚」あるいは「新鮮な生の魚」を詠っているところ。佐太郎の作品の方に透明感と清涼感があるのはそのせいだろう。
次に、茂吉の作品には「自宅(病院)の全焼」という「事件」を背景としているのに対し、佐太郎は「魚」そのものを詠んでいることである。その意味で佐太郎の作品の方が、詩的昇華・余剰の捨象の度合いが高い。
最後に、佐太郎は「ごとき」という直喩を使っていることである。「短歌における喩」については、岡井隆著「現代短歌入門」にくわしいが、佐太郎の「直喩」の手法は見事。それがこの作品にはあらわれている。
斎藤茂吉と佐藤佐太郎。子弟の関係だが作風は全く違う。同じ明治生まれでありながら活躍の時期の頂点が、茂吉は戦前、佐太郎は戦後。
「時代と歌人の出逢い」という高野公彦の言葉を思う。
また、茂吉の作品の方には地方色のようなものが漂う。西郷信綱のいうように、やはり茂吉は「みちのくの農の子」なのであろう。
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