・ひろびろと浜の常なる寂しさかわが間近くの波はとどろく・
「群丘」所収。1961年昭和36年作。・・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」119ページ。
佐太郎の自註から。
「私は海岸で育ったから『ひろびろと浜の常なる寂しさ』を感じていたが、その感じをこの下句はやや生かし得ているように思ったのであった。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」
「伊良湖岬の太平洋側に広い砂浜がある。近くくだける波音は厳しいが、長浜全体はとりとめなく寂しい。蘇東坡が『荒涼海南北』といったのもこんな状景だつたらう。」(「及辰園百首自註」)
秋分の日に行ったとあるから、寂しい情景なのだろう。「常なる」とはどういう意味か。一年を通してではなく、秋の寂しさが永遠に感じられたのだろう。
細長い浜は寂しくても、手前の波は激しい。「寂しさ」と「激しさ」。二物衝突法だ。この部分と「常なる寂しさ」という、言えそうでなかなか言えない、主観表現が、この一首の詩的把握となっている。
「常なる寂しさ」が「人影のなき」となってしまえば、たちまち魅力は半減する。そこが肝要なところだろう。
美しい叙景歌だが、そこに主観がそれも「常なる」と独特な表出をしている。これが「象徴的写実歌」(岡井隆による)と言われる所以であり、「文体の面白さ」(「星座52号」での岡井隆の発言)だろう。
岡井隆はなおも言う。
「これ(文体の面白さ)が分からなければ、佐太郎は分からない。(笑い)」(「同」)
この伊良湖岬の一連の作には次のようなものもある。
・曼珠沙崋さくところよりおりたちて光ゆたけし伊良湖の浜は・
・ひかりさす浜に憩ひぬわがめぐり枯れし草萌えし草かがやきて・
・おほよそは秋日まぶしきなかに立つ浜ひろければ波遠くして・
この三首は主観を入れず情景描写に徹している。こういう詠い方、本来の意味での叙景歌が詠め、それが基礎になっているところが、佐太郎の強みだろう。つまり歌の骨格が揺るがない。それゆえ冒頭の一首のように、客観・主観の出入りも活かすことが出来るのだろう。