・梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへそのうちにあり・
昭和54年(1979年)作。「星宿」所収。
若い頃の佐太郎は都市詠を数多く詠んでいる。その題材は、鋪道(歩道)・公園・貨車・電車・マンホール・ビルなどに及ぶが、「開冬」の中期からは、自らの老いを詠んだ境涯詠が増えてくる。63歳になった頃からで、そのかわり、緊張感のある心理詠や都市詠は姿を消す。50代後半に入院療養をしたり、入院中に病院で新年を迎えたこともあって、急速に老いを意識しはじめたようだ。
ここでとりあげた一首は、「二十世紀」という梨の品種に自分の残り世を重ねているのだが、発想が面白い。そのほかにも印象深い作品がいくつもあるが、共通点は愚痴やボヤキがないことである。
「星宿」にはほかに次のような作品もある。
・珈琲を活力として飲むときに寂しく匙の鳴る音を聞く・
「珈琲を活力として飲む」という動作に生きようという意思が感じられるが、「寂しく匙の鳴る音を聞く」ことに自分の老いを受け止めようという気持ちが働いている。
・歳月の迹なく老いてゆくならん当然ゆゑに嘆かざれども・
「嘆かざれども」とあるが、一首には詠嘆が溢れている。ゆるやかな声調がその原因であろうか。老いてゆく自分を静かに凝視しているようである。
・近く死ぬわれかと思ふ時のあり蛇崩坂を歩みゐるとき・
いわゆる「蛇崩往反の歌」。晩年の佐太郎は目黒の蛇崩坂を歩くのを日課とした。あるときは杖をひき、あるときは坂のしたの喫茶店で珈琲を飲む。田中子之吉によれば、「フィニッシュにふさわしい作品群」ということになるが、近くの川は暗渠となり、佐太郎が珈琲を飲んだ喫茶店は今はもうないそうである。
・おもむろに一日一日が過去となる集積あはれ老いの歳月・
「一日一日が過去となる」。しかも「集積」していくと言う。その集積のさきに「死」があるのであるが、それを言わずにあらわしているところが、感受の深さを思わせる。
・寒暖を知らず体調の善悪を知らず茫々と一日すぎゐき・
「寒暖を知らず」「体調の善悪を知らず」。かといって自虐的になっているのではない。一種の達観であろうか。達観ではあるが、宗教的なにおいが微塵もしないところに良さがあるように思う。
・杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずといつ人は言ふ・
自分の死後に思いをはせている。「ゆきし人」は作者、「人は言ふ」の「人」は第三者である。自分の死後をこれほど客観的に詠った作品を僕はいまだかつて読んだことがない。
「星宿」は佐太郎の生前出版された最後のもので、これにより「迢空賞」を受賞した。
ほかに「老いの歌」をいくつか挙げてみる。
・老いづきし人の憂いを見るごとく遠き桜がをりをりうごく・「開冬」
・わが顔に夜空の星のごときもの老人斑を悲しまず見よ・ 「天眼」
・手に杖をたずさふ者の当然として力なき足を嘆かず・