・いこひなき音ぞきこゆる崖下の沼にたぎり湧く湯の水反響(みづこだま)・
「群丘」所収。1959年(昭和34年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」114ページ。
佐太郎の自註。
「(八幡平の温泉の源泉)その近くに大湯沼がある。ここも特殊で切実な風景であった。・・・沼に沿って一周した。崖の下で湯の湧く音が反響しているところがある。昨年夏< 昭和51年 >ここに遊んだときは変化して沼の様子も変り、こういうところはなくなったし、水も少なくなっていた。洞窟のようなところの反響を< みづこだま >と造語したのがこの歌の手柄である。」(「作歌の足跡-海雲・自註-)
作者本人の言う通り、「水反響(みづこだま)」という造語が活きている。三句目の「たぎり湧く」で、温泉の源泉近くだと分かるが、そこは一首の中心ではなく、聴覚を効かせた結句のこの造語が一首の中心だろう。
「水反響」が状態の深さをさながらに伝える、と言ったのは由谷一郎。(「佐藤佐太郎の秀歌」)
また初句と二句の「いこひなき・音ぞきこゆる」のやや古風な詠み方。この場合は一首にある種の「厚み」を与えている。「ぞ」+「動詞の連体形」と二句切れで読んでもいいし、三句目の「崖下」に続けて「係り結びの消去(流れ、解消)}と考えてもいいが、二句切れで読んだ方が勢いがあってよいだろうと思う。
「崖下の沼」が場所を示す表現で、「たぎり湧く」が視覚による感受。あとは聴覚による感受である。全体に聴覚を活かした一首と言えるが、「水反響(みずこだま)」という造語が実に見事で、効果抜群である。
「遊ぶ」というが、吟行は短歌の素材を多く得られる機会と言えよう。
全体に象徴詩の雰囲気が漂う。しかし飽くまで素材の中心は具体である。岡井隆が佐太郎作品を指して「象徴的写実歌」といい、「写実的象徴歌」といわなかったのはこのためだろう。
「象徴:直接つかみにくい内容を暗示的に表現することをいう。」(岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」)
ただし茂吉と佐太郎にとっての「象徴」は「物事の背後に何か普遍的なものが感じられること」を言い、「象徴主義=モダニズムのサンボリズム」とは異なる。あくまで客観的存在、具象が中心であって、自己凝視という意味で「自然主義=茂吉のいう< 獣性=人間の弱さ、弱点、葛藤などの表現 >の影響下にあることを確認して置く必要があろう。
同じ「象徴」でもそこが塚本邦雄との違いだ。