・白埴の甕こそよけれ霧ながら朝はつめたく水くみにけり・
「長塚節歌集」所収。1914年(大正3年)作。
先ずは歌意から。「白埴の甕」とは「白磁(白い磁器)の花瓶」、「こそ・・・よけれ」は係り結びで「よい」の強調(=まことにすばらしい)。「霧ながら」は「霧とともに」。
つまり完全な口語の散文にするとこうなる。「白い磁器の花瓶はまことにすばらしい。けさは朝霧もろともに水を汲んできたんだ。」
そこでもう一度原作を読むと、ピンとした清涼感が伝わって来る。「白い磁器の花瓶」「朝」「霧」「つめたい水」。見事な緊張感、すがすがしさである。このような清涼感は正岡子規にも伊藤左千夫にもなかった傾向で、作者独特のものである。
正岡子規は「旧派和歌」との決別宣言として、写生を唱えた。伊藤左千夫は「九十九里の歌」にみられるような大きな歌がらと、晩年の「寂滅の境地」に真骨頂がある。
そして長塚節のこの清涼感。明治の根岸派の歌人はそれぞれの資質におうじて、独自の境地を切り拓いていった。
斎藤茂吉は長塚節を「本来的な意味での師」と呼んでいるが、この清涼感は茂吉晩年の最上川の一連の作品群と通じるものがあるのではないかと思う。また景の雄大さは伊藤左千夫と通じるところがある。森鴎外の「観潮楼歌会」もあった。
長塚節・伊藤左千夫・森鴎外。齊藤茂吉の作風が、ある時期は浪漫派・象徴派と近くなり、最終的に独特なものに達したのには、このようなものが影響しているのではないかと僕は思うのだが、いかがだろうか。