岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

前衛短歌によって残されたもの失われたもの

2010年08月23日 23時59分59秒 | 私の短歌論
岡井隆著「私の戦後短歌史」や、「角川短歌」の共同研究「前衛短歌とは何だったのか」を読んでいて感じるのは、前衛短歌が目指したものが、とてつもなく大きく、それを担う歌人たちが悩み苦しんだということである。ある者は非難にさらされ、ある者は一時的に身を隠し、またある者は歌壇より去った。

 前衛短歌の担い手を、塚本邦雄・岡井隆・寺山修司としよう。葛原妙子は「前衛短歌」と呼ばれるのをよしとしなかったそうだから、中条ふみ子とともに前衛短歌の周辺の潮流と仮に呼ぼう。その「周辺の潮流」を「歪んだ女歌」と言い放ち、初期の塚本邦雄を批判したのは近藤芳美だった。

 その近藤とともに近代短歌の遺産を引き継ぎつつ、戦後短歌を引っ張ったのが宮柊二らの戦後派歌人である。僕は佐藤佐太郎をこれに入れていいと思う。佐太郎は戦前の「新風十人」に名を連ねたが、作風・歌論が確立したのは戦後だからである。

 前衛短歌の特徴を僕はかつて「難解性・思想性・象徴性・権威の否定」とまとめたことがあったが、見逃したものは近代短歌の遺産との関係性である。つまり、近代短歌の否定の上に前衛短歌が成立したと、一般的に思われているいうこと。

 塚本・寺山はすでになく、ひとり残った岡井隆は「私の戦後短歌史」のなかで、「俵万智現象」を批判的に見つつその反動として「思想性もあり、短歌の伝統に根差した作家」が出現したことを、「一遍、大きく右へぶれたのが、正統に戻って来ている。」と述べている。

 前衛短歌は「第二芸術論克服のための表現改革の運動」(三枝昂之)であった。戦後派歌人によって第二芸術論に対し、「作歌理念で応えたが、具体的な表現改革のプログラムは提示されなかった」(加藤治郎・角川現代短歌辞典)ともいわれる。

 しかしどうだろう。「角川短歌」の座談会の参加者の発言や、岡井隆の語るところを総合すると、近代短歌の築いた遺産まで、前衛短歌は捨ててしまったのではないか。これは前衛短歌の負の部分、少なくとも「失われたもの」だ。

 近藤芳美の「思想詠」、宮柊二の「リアリズム」、佐藤佐太郎の「純粋短歌」。これらの戦後派歌人は決して「表現改革のプログラムのないもの」(角川短歌辞典・前衛短歌の項目)ではない。

 明治維新のころ、文化の西洋化が進む過程で日本美術の良質な部分までが捨て去られようとしたとき、それを掬った人々がいた。フェノロサ・岡倉天心・小泉八雲らであった。

 前衛短歌によって「失われたもの」(または読者に「見失わせたもの」)は、「近代短歌の築いたものを否定した」という外見だったのではないか。

 その結果、当事者たちの意図を超えて(例えば塚本邦雄があれほど熱心に齊藤茂吉を研究したにもかかわらず)、

 「一時を栄え、歴史のかなたに埋没していくであろう性質の、レベルの作品」(奥村晃作・「短歌研究9月号」)

の氾濫を招いたのではないか。「平成の短歌には詩の重量感のようなものがない」と述べた水原紫苑の発言も、それと同じ方向のベクトル上にあったような気がしてならない。(短歌研究9月号の奥村論文については、後日あらためて記事にしようと思う。

 



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