僕の第三歌集「剣の滴(つるぎの滴)」より。
・濁りなき鮮紅色にありしとぞジャンヌ=ダルクの剣(けん)の滴は・
・昼過ぎの地に列をなす蟻を見て不意に思えりローマの奴隷・
・土葬する慣いありしという村の墓地の隣に人は稲刈る・
・ひそやかに物陰に咲くドクダミをベツレヘムの地の塩に例えん・
・冬の陽がグラスの中に屈折し描く楕円はわが新世界・
一首目。ジャンヌ=ダルクの剣の滴。鮮紅色(鮮やかな赤)というのだから、これは血である。ジャンヌ=ダルクの物語や映画をいくつか目にしたが、そのうちのどれか忘れたが「ジャンヌの剣からしたたる滴は鮮やかな赤であった。」というものがあった。魔女裁判で火刑に処せられたが、後年、聖人に列せられた。こういう伝説が生まれてもおかしくはない。
二首目。これはある夏の日の直感である。足もとの地面に蟻が列をなしていた。そこで「ローマの奴隷」を連想したのだ。映画「ベンハー」の記憶のなせる業かもしれない。
三首目。昔はどこでも土葬だった。地方で納骨しようとしたら、ご先祖の骨が出てきたという話も聞く。あるところで水田の真中に、共同墓地のある村があった。そこも戦前までは土葬だったそうだ。そこで稲を刈る人。その米を現代人が食べる。生命の連続性を思った。
四首目。ベツレヘムはキリスト生誕の地。「地の塩」は聖書の言葉で、「目立たなくとも、役に立つ人たれ」。ドクダミは薬草にもなり、物陰に白い花を咲かせる。それも地面に近いところで。まさしく「地の塩」だ。塩もまた白い。
五首目。白いテーブルクロスのうえにグラスを置いたら、室内照明が屈折して楕円を映し出した。何だかそれが、僕の新しい世界を開くきっかけのような気がしたのだった。
どれも「写実」ではないと言われそうだが、即物的なものだけが「写実」ではない。島木赤彦が「歌道小見」で言ったように、「概念歌」という心理詠もまた「写生」であると僕は思っている。
おまけに僕は西脇順三郎や吉田一穂などの作品が好きだ。西脇順三郎は「超現実主義」、吉田一穂は「後期象徴派」の詩人。「現実主義」ではないが、その詩は美しい。美しいものを表現に取り入れるのに何をためらう必要があろう。
美しいものを「心の中にしっかりとうけとめる」。これもまた「写生」。島木赤彦だったか斎藤茂吉だったか。何も「写生・写実」を狭く考える必要はない。
「新しい時代の要求に合わせて、問いなおす」(岡井隆編「集成・昭和の短歌」)のも必要なことだろう。