・民族のエミグラチオはいにしへも国のさかひをつひに越えにき・
「白桃」所収。1933年(昭和8年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」171ページ。
先ずは語意と背景から。
「エミグラチオ」(=人の移動・移民。英語ではエミグレイション。海外へ移住すること。)1933年は日本が国際連盟を脱退し、満州のみならず華北にまで軍事行動を拡大した年。「軍事占領・日本軍の恒常的駐留」というシナリオのもと、熱河省にて大規模な軍事行動をおこなった。これは熱河省を満州国に組み入れるためのもので、日本軍は山海関(満州から華北への出口)を越えた。(江口圭一著「15年戦争の開幕」参照)
茂吉の自註。
「エミグラチオは、Emigratio で、< 移動 >と訳してゐるから、此処では民族移動である。なぜここで洋語などを用ゐたかといふに、この現象は皇国の歴史よりも西洋史の方に顕著で、この語もさういう国々のあひだに発達したのだから、それを仮りた。併しかういう具合に使へば、その音調も相当に好く、日本語として使っても毫も差支はないやうである。さて、一首は、民族の移動現象は、古代にも国境をどしどし越えたものだ、といふのであるが、作者の心中には満州事変などが切実に感ぜられたことが分かる。特にリツトン卿といふ英国人が満州まで調査に来、南京政府に御馳走になったりして、その報告もいい加減なものであったとも聞いている。皇国政府が国際連盟を脱退し、その時、松岡代表が、” Japanese policy is always fundamental "ともいつた、さふいふ事も作者の念中にあった。」(「作歌40年」)
「漫然と気づいたものにこのやうな歌もあり、従来の歌に比して幾らか注意せらるべきものとおもふが、併しこれとても時がもっと経って見なければならない。」(「白桃・後記」)
この二つの自註の温度差は何かと僕は思う。「作歌40年」の方は戦争熱に浮かされている茂吉像が浮かぶ。リットン調査団の報告は「満州を日本を中心とする国際管理のもとに置く」というもので、日本に妥協的なものだった。(江口圭一・前掲書)
おそらく茂吉が「作歌40年」で言うところは、軍や政府の発表や流言の類を鵜飲みにしたものだろう。
ラジオ・新聞はこぞって、日本の国際連盟脱退(松岡洋介外相が国際連盟の議場から退出したこと)を讃えた。
「わが代表、堂々の退場」といった見出しが新聞の一面を飾った。
茂吉の「作歌40年」の記述はそれに近い。当時の多くの国民が考えていたこと、社会で吹聴されていたことを忠実に表しているようでもある。
それに反して「白桃・後記」の方は、比較的客観視している。この辺に戦中の茂吉の心理状態(戦争熱と冷静にみることの落差)があらわれていると思う。
この一首については、佐藤佐太郎、長沢一作、塚本邦雄もとり上げていない。失敗作だといってもいい。
冒頭の一首は、岡井隆ほか「斎藤茂吉-その迷宮に遊ぶ」でも俎上に上がっている。
そもそも近代戦争に古代の民族移動を引き合いに出すのは、茂吉自身がしばしば繰り返し否定する「からくり」だし、南京政府云々は時の政府の発表のオウム返しや流言に他ならない。マスコミ報道を素材にした「時事詠」はこういった大きな誤りを招く場合がある。「時が経って」という歌集の後記の記述は、茂吉の意識下に「時代の検証に耐えられるだろうか」という思いがにじむ。
そういう気持ちのブレは茂吉の生涯にたびたび現れる。はっきり言えば、この時点で茂吉は時事詠を詠むべきではなかったのだ。同じ時事詠でも社会詠に近いものを土屋文明は、同じ1933年(昭和8年)に次のように詠んでいる。
・吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機会力専制は・
・横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ・
・無産派の理論より感情表白より現前の機会力専制は恐怖せしむ・
度外れた破調だが、そこに「このまま戦争が続いたら、人間はどうなるのだろうか」という暗澹たる心情が表現されている。茂吉とは対照的な表現内容である。どちらが「時の推移に耐えうる作品」か、というのは明らかだろう。