・代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき・
「山谷集」所収。1930年(昭和5年)作。
この年は満州事変の前年で、斎藤茂吉が満鉄の招きに応じて満州から北京まで長期の旅行をした年だ。この旅行が「満蒙は生命線」という国策に沿ったもので、「満州熱」を宣伝するものなのは明らか。こうした斎藤茂吉の作歌傾向とは対照的である。
代々木野は、東京都渋谷区にあった代々木練兵場のことで、ここで朝の訓練のようすを見ているのである。
下の句の「戦争というは涙ぐましき」という表現が「アララギ」の高野山安居会(全国集会・合宿)で問題となり、高田浪吉から、
「アララギの発行所をやる土屋がこんな弱い心持ではいけない」
というようなことを言われたという。反軍的あるいは弱腰ということだろう。(小市巳世司編「土屋文明百首」)
同書によれば、1940年(昭和15年)の「新選・土屋文明集」で、冒頭の一首は収録を認められず止む無く削られた。戦争を「涙ぐましい」ということさえ許されぬ時代になったのだ。
戦争では人間がたくさん死ぬ。それを表面だって悲しむ、悼むことさえ問題視されたのである。人間の命が奪われていくことを詠嘆している作品であるのにだ。
土屋文明はのちに次のような作品を残している。
・無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ・
・横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思うは陰惨にすぐ・
・吾が見るは鶴見埋立地の一遇ながらほしいままなり機械力専制は・
ともに「山谷集」1935年(昭和10年)刊より。
この作品群は「短歌研究」に発表(1933年・昭和8年)されたもの。このまま行けば人間はどうなるだろうという危惧(戦争の持つある種の底知れないおそろしさ)を詠っている。破調が「おののき」に似た心情を表すのに非常に効果的だ。「リアリズム写生」と言ってもいいが、この傾向のもとから近藤芳美・岡井隆などが出てくるのもむべなるかな、である。
だが前述の1940年(昭和15年)には、「おそろしさ」を表現することはゆるされなくなり、さすがの作者も1941年(昭和16年)の日米開戦にあたって、「大君=天皇」をたたえる「時局詠」を詠っている。
歌人を含む文学者は文学報国会に組織され、短歌は「戦意鼓舞のための危険な凶器」となったのである。土屋文明もその埒外にはいられなかった。この時期の歌壇の状況は、品田悦一著「斎藤茂吉」で窺える。このことは西郷信綱著「斎藤茂吉」はもとより、岡井隆の著作でもはっきりとは叙述されていない。
歌壇全体がそのような体制に組み込まれ、著名歌人が「一人の脱落者もなくこれに名を連ねた」「みずからの地位にすがりつき、保身を図るという歌壇の癒着構造があった」と厳しく指摘するのは篠弘である。篠の師である土岐善麿・窪田章一郎の父親の窪田空穂も例外ではなかった。