・あはれなるものの匂のなくなりし公孫樹の幹に日が当りゐつ・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。
先ずは佐太郎の自註から。
「『あはれなるものの匂』は葉の匂いだが、それを私はあらわに言わなかった。公孫樹の幹は鋼鉄のようなかたさを感じさせる。それをこころよく感じる人もあり、わびしく感じる人もあるだろう。下句はその幹の好悪以外の感じを言っている。」(佐藤佐太郎著「作歌の足跡-海雲・自註-」)
ここが解らない。「あらわに言わなかった」というが、言わなければ「葉の匂い」と伝わらない。直接言わず、しかも「・・・のごとし」「・・・のように」がない「暗喩」と考えていいだろう。
元来佐太郎はこういった表現方法は用いなかった。時代は前衛短歌の最盛期。その影響と考えてよいと思う。だが下の句が「明確な具体」であるので、いささかバランスを欠いているように思う。「読者に解らせる短歌」になってしまっている。
佐太郎らしからぬ作品だが、自選歌集にはいっているところをみると、作者本人は至極気に入っている作品のようだ。だが「限定」「捨象」のし過ぎだと思う。
読者の読みにまかせてしまっている。そういう面白さはあるが、本来の佐太郎の作品ではない。やはり前衛短歌を意識し過ぎている。
かつてモダニズムやプロレタリア短歌の勢いが増したとき、斎藤茂吉が「機上詠」で対抗したのと似てはいまいか。
佐太郎らしからぬこういう作品は、前衛短歌の終息(1966年から1970年)以降は姿を消す。
もしも僕ならこうしただろう。
・葉の匂すでになきことあはれにて公孫樹の幹に日が当りゐつ・
「あはれなるものの匂」では「葉の匂い」とはわからない。ここは省略せずにいうべきだろう。