岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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齊藤茂吉45歳:雷の近づく夕方を詠む

2010年09月01日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・ぬばたまの夜にならむとするときに向かひの丘に雷近づきぬ・

 「ともしび」所収。1927年(昭和2年)作。

 「ぬばたまの」は夜にかかる枕詞。そのときに「向かひの丘」に「雷(かみなり・らい)」が近づいてきた。

 「世界を遠近法で捉えるのが近代における写生」と言ったのは、佐佐木幸綱(「百年の船」・あとがき)だが、その通り斎藤茂吉の作品は遠近感を表現するのが巧みだった。

 茂吉自身はこういう。

「この歌は雷鳴を歌にしたのであるが、< ぬばたまの夜にならむとするときに >といふ上句は枕詞などを用ゐ、能ふかぎり単純素朴に行かうとしたところに苦心があった。」(「作歌四十年」)

 斎藤茂吉は「夕立の来るような日は朝から頭痛がして体が大儀だった」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」)そうだが、茂吉は自律神経過敏だったという斎藤茂太の叙述(「茂吉の体臭」)とも一致する。

 塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉」、長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」ではふれられていない。作品の内容が平凡と言えば平凡だからだろうか。

 しかし僕は、遠近感を巧みに表現しているところ、「いかづち」と言わずに「らい」と読ませたところ、茂吉の特殊な感受を示しているところから、注目作と呼んでいいのではないかと思う。

 「白桃・しろもも」「水泡・みなわ」「起伏・おきふし」と、「やまとことば」に執着した茂吉だが、ここでは「雷・らい」と漢語的に「音読み」にしているのが、一首をひきしめるはたらきをしていることも、見逃せない。





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