・ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり・
「暁紅」所収。1935年(昭和10年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」188ページ。
難解な言葉はない。そこでさっそく茂吉の自註から。
「その侭の写生で、従来の規準からいへば最も歌らしくないものの一つであらう。けれども斯うして一首になると変な厚ぼったい味があって棄てがたいのである。」(「作歌40年」)
「これは作者自ら云ふのは、をかしいことで気が引けるが、観入した対象に幾らか新しいものがある。・・・(五首略)・・・こんな歌がある。」(「暁紅・巻末記」)
さらに佐藤佐太郎・長沢一作・塚本邦雄の批評を抜粋しよう。
「街頭嘱目の一首。街の運送屋のようなところのガレージにトラックが入って行くところで、せまいところへ入るのだからトラックは一息に進行するのではなく、ハンドルを操作しながら逡巡するように入る。感情のない機械であるトラックの動きの中に、人間の恥じらいのようなものを認めたのである。山川草木鳥獣以外の近代的無生物を対象に感情を移入したのが特殊でもあり新しくもある。」(佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」)
「全く新しい街頭嘱目である。< ガレージ >< トラック >という言葉が新しいというだけでなく、入ってゆくトラックに対して< 少しためらひ >というように見た、この把握が斬新である。・・・在来の短歌にはかつてなかった表現である。」(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)
「トラックなる車が、その外来語としての語感はもとより、姿や形も、使用目的も、甚だ非・審美的(=美と醜を見分けないこと・美しくない)である上に、それを操るところの専門家も、そのかみの奴(やっこ)雲助を連想させる一つのタイプを持ってゐる。良く言へば畾楽で野性的で底抜けに明るく、男臭くエネルギッシュである。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」)
引用が長くなったが、「新しさ」とは斎藤茂吉の作品としての、当時の歌壇としてのものだ。そして、塚本邦雄の「奴(やっこ)雲助の連想、エネルギッシュな感受」これも理屈としてはわかる。
ただ僕としては「灰色一色の印象」が強い。印象の鮮明さからいうと「赤光」の作品群、情感の深さとしては「あらたま」「ともしび」の作品群、都市詠の鮮度としては佐藤佐太郎の作品には遠く及ばないとそう思う。
斎藤茂吉が古典にはいる部分があると思うのはこう言う点である。だからこの作品は斎藤茂吉の代表歌とは言えないと、今は思う。この作品の良さが感じ取れる日がいつかは来るだろうか。
そしてこうも思う。茂吉は自註で「対象の新しさ」「厚ぼったい味」と言った。上の三人の批評が、その自註に引っ張られ過ぎているような感じがする。無理して誉めているのではないか、ということだ。
さらにこうも思う。斎藤茂吉を「みちのくの農の子」と言ったのは西郷信綱だが、その地方人の資質のようなものが、茂吉の良さではないか。だから岡井隆が「茂吉の短歌を読む」の中でとりあげたように、「山の歌」「飲食(おんじき)の歌」が茂吉の最大の持ち味ではないかと思う。だが冒頭の作品にはそれがない。
また叙景歌では、塚本邦雄がベルレーヌ的などと評した「雨の歌」、それと「アナクレオンの歌」など西洋の古典に題材をとった作品群なども秀歌として数えられると思うのだが、そういう感性の鋭さもない。しかし、「ガレージ・トラック」という洋語の使用と、「ためらい」という言いあてた擬人的把握、都市に題材を見つけたこと。これらは1935年(昭和10年)の時期としては新しい試みであったろうし、そのあたりに佐藤佐太郎につながる要素はあると言える。
やはり、
「みちのくの農の子」としての地方人的気質、伊藤左千夫をして「理想派」と言わしめた感性の鋭さ、岡井隆のいう「赤光」に見られる「獣性」。この辺りが茂吉の持ち味だと思う。茂吉といえど「資質」に合わない作品を作ることもありうるということかも知れない。