「ブナの木通信」『星座』78号より
短歌には素材がある。素材そのものでは詩にならない。作品の背後に何か一つの普遍的意味が見えたとき、それが作品の主題である。
(残雪が昼の光に溶け行く歌)
残雪が昼の光を浴びて溶ける。ただそれだけなのだ、そこに窺えるのは自然の大きな営みである。その大きさの前に言葉を失っている作者がいる。自然への畏敬の念さえ感じられる作品だ。
(三月の息吹の歌)
息吹はどちらかと言えば観念的な語。校歌などでもよく使われる。しかし初句と二句の聴覚を活かした表現が作品に詩情をもたらした。読者の耳に音が聞こえるようだ。
(雪消水が排水溝に落ちる歌)
無論、雪消水に命はない。しかし命あるもののごとくに「自らの道」を作る。これもまた自然に対する畏敬の念だ。
(子供が巣立って節分に落花生をまく歌)
節分でまくのは大豆である。だが作者は落花生をまくという。そこに如何なる意味があるのか分からない。しかし、子らが独立したのち、特別の感慨を持っていたのだろう。子らのいない一抹のさびしさも感じられる。
(めぐりあった人と約束して会って時を分かち合う歌)
助詞「て」の重出は耳障りがし、物事の推移を順を追って説明するものになりがちだが、ここでは不思議な効果をもたらした。思いがけず出会った人だが、その人と会う作者の心のときめきまでが感じられる。
(沖縄辺野古基地の和解の歌)
寺山修司の本歌取りである。選歌をしていて本歌取りに初めて出会ったので取り上げた。沖縄辺野古の問題。国と県の「和解」があったが地元の理解は得られそうにない。海保、機動隊による暴力も伝え聞く。おろそかならざる事態である。この作品、寺山とは違う角度で、違う素材に取り組んでいる。元歌も誰もが知る名歌。これが本歌取りの条件。
(雪女のような雪のつぶてが窓を打つ歌)
これは紙数がなくて批評できなかったのでここで批評する。吹雪の襲来。時には人命に関わる大事だ。自然の驚異。それを「雪の女の怒り」という比喩で表現した。的確であり、吹雪のすさまじさがありありと浮かぶ。臨場感がある。比喩は平凡になりがちだが、この作品の比喩は成功している。
(終わり)