1、広島への原爆投下の歌。
川風のやむときことに蒸し暑き昼ヒロシマの街を歩みき
広島の原爆忌は8月6日。この日に広島へ行った。二回行ったろうか。初めての時に、広島の平和公園を巡ったあとで川岸に降りた。かなりの蒸し暑さだった。被爆直後に川は、原爆に体を焼かれて水を求める人が殺到した。だから、夏、広島、川の三つがはいれば、原爆の歌として通用すると思った。
当時は社会詠の境地を切り開きたくて、ペンネームで「短歌」の公募短歌館に毎月投稿していた。ペンネームにしたのは、失敗作も予想されたから。これは公募短歌館で入選。選者は「コスモス」の奥村晃作だった。
2、長崎への原爆投下の歌。
・爆風ものぼりゆきしや長崎のここなる坂に白猫歩く
長崎に原爆が投下されたのは8月9日。この日には長崎にやはり二回行った。「短歌」の公募短歌館にペンネームで投稿したが、これは特選だった。選者は「塔」の吉川宏志。「下の句が上手い」という選評だった。
長崎は坂が多い。一回目の時に行きのバスの中での第一印象。猫も多かった。白猫が原爆の死者を追悼するように、静かに歩いているように思えた。坂道の多さは相変わらず。これを作品に詠んだ。
3、8・15の歌。
・かの夏も風は乾きいしや八・一五満州の地に
僕の父かたの祖父母は満州からの引揚者だった。引揚船の切符が早く手にはいったが、子どものいる家庭、妊婦さんのいる家庭に三度切符を譲ったそうだ。祖父の判断。父や他も家族には内緒だった。収入の道がなく、旧ソ連の工場にアルバイトに行ったり、家財道具を路上で売って生活費を出していた。帰国は家族の悲願だった。
それが三回も切符を譲ったのだ。祖父は頑固者でよく喧嘩したが、そういう一面があった。後に聞いた話だが、戦争中の国禁の書類を預かったこともあったという。発見されれば、治安維持法で謙虚される。書類の内容は歌なり重大なもので、厳罰に処せられかねないものだった。
祖父にはそうした義侠心のようなものがあった。生きているうちにもっと話を聞くべきだったと今更思う。
とにかく戦争の話はよく聞いた。これが僕の「戦争体験」だが、「爺ちゃん、その話は三回目だよ」などと僕は生意気を言っていた。「星座88号」掲載。選者は尾崎左永子である。