戦後の短壇は「第二芸術論」にさらされていた。複数の作家・詩人らによる「短歌は文学たりえない論」である。
それに対する歌壇の反応は、近藤芳美の「新しき短歌の規定」であり、土屋文明の「生活即短歌」であり、「前衛短歌の出現」であった。この時期に刊行されたのが、佐藤佐太郎の「帰潮」である。
すでに書いたように佐太郎には特別に心に期すものがあったらしいが、それは「帰潮」の「後記」からも窺える。
「戦後の歌壇には< 第二芸術論 >によって代表される外部からの短歌批判があった。さういふものを取り入れて脱皮しようとする人もあり、反撥して短歌の特地を固守しようとする人もあったが、私はそのいづれでもなく、ああいふ外部批判に格別に反応しなかったのである。さういふ事とは別に、自身の信念を独語の形でまとめようとして< 純粋短歌論 >といふものを雑誌< 歩道 >に連続執筆したのであった。」(「後記」より抜粋)
また「純粋短歌論」の末尾には次のような一文もある。
「この中(=純粋短歌論)に自分の創見が満ちているとは思わないし、むしろその反対で、ほとんどは先進の受け売りのようなものかも知れない。」(「純粋短歌論」より抜粋)
実際、佐太郎の「純粋短歌論」の構成・章だては、島木赤彦の「歌道小見」と似たところがあるし、「虚」の問題については、正岡子規・斎藤茂吉の影響が窺える。(このことは< カテゴリー「写生論アラカルト」 >の「虚と実について」のなかで述べた。)「象徴」についての考え方も島木赤彦・斎藤茂吉と共通するものがある。
それでいて佐太郎の短歌は、「写生・写実系」の先人のどの歌人とも違ったものである。「象徴的写実歌」と呼ばれる所以である。「写生・写実系」の歴史をふまえた上での新風である。島田修二がかつて「角川・短歌」誌上で、「正統派の悩み」と佐太郎の作歌活動を呼んだのも、このあたりに原因があるのだろう。
「象徴的写実歌」と呼んだのは岡井隆だが、「象徴派」と「写実派」とのあいだには長いあいだ溝があった。そもそも「象徴」の捉え方が異なり、それゆえ議論がかみ合わなかったところが大である。だが、「象徴的写実歌」が佐太郎のオリジナリティーであることに疑問をはさむ余地はない。
であるならば、佐太郎が意識するかどうかに係わりなく「帰潮」は「第二芸術論」への反駁のひとつであったし、それがすなわち「象徴的写実歌」の確立であったのだと思うが、いかがだろうか。