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■「ヤノマミ」=「人間」
「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」というDVDを購入した。
この番組は、2009年4月にNHKスペシャルで放映されたもので、反響が大きくて劇場公開もされ、それをDVDにしたもの。
当時のNHKスペシャルで見た時、自分がめくれるほどの衝撃を受けた。
「ヤノマミ族」とは、アマゾン最深部に1万年以上も独自の文化・風習を守り続けている部族のこと。
広大なジャングルに分散して暮らしているらしい。
「ヤノマミ」とはヤノマミ語で「人間」という意味。
取材陣に対しては「ナプ」と呼び、厳然と区別をしている。
「ナプ」は「ヤノマミ」ではない存在。そして、人間以下の存在らしい。
映像でも、「ナプ」である取材陣を前にして、「敵なのか」「味方なのか」と迫って問いながら、呪文のように歌い踊る映像があった。
原始的で呪術的な世界のリアルを感じた。
出産後では、胎盤をバナナの葉にくるみ森に吊るす。そして、アリに食べさせる。
『ヤノマミが言った
地上の死は 死ではない
人間は死ねば精霊になる
地上で生き 天で生き
最後は虫となって消える』
魂は死なず精霊となるが、精霊もやがて死ぬ。
最後は虫となって消える。
男性はハエやアリとなり、女性はノミやダニとなる。
■精霊
出産後、その生まれてきた存在を、「人間」として迎えるか、「精霊」として天に返すか、母親が決める。
周りはその理由を問わずにそのまま受け入れる。
「精霊」として天に返すときも、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、白アリのアリ塚にささげる。
白アリが食べつくしたあと、そのアリ塚を焼いて「精霊」になったことを天に報告する。
寿命や病気で人が死んだときも、「精霊」に戻すために同じことが行われる。
人は、元は精霊であって、精霊に帰る。
生まれてきて「人間」になるかどうかは、生んだものが決断する。
それは、「精霊」のままで天に戻ることもあり、「人間」として「ヤノマミ」になることもある。
動物も、精霊が形を変えて人間に何かを伝えにやってくると信じられている。
人間も動物も境界はすごく淡いけど、
10歳くらいの子どもがサルを自分でつかまえて丸焼きにして食べていたり。
それなりに衝撃的な映像が淡々と流れる。
そんな精霊の世界に満ちた世界で生きているヤノマミの映像は、僕らの深い場所のドアをコツコツとノックする。
■バナナ型神話
バナナの葉に包むのを見て、バナナ型神話を思い出した。
バナナ型神話とは、東南アジアなどで見られる死の起源神話。
「金枝篇」を書いたスコットランドの人類学者フレイザーが命名したもので、日本の神話にも、このバナナ型神話の変形がある。
バナナ型神話。
カミなる存在が、人間に対して石とバナナのどちらかを選ぶように言う。
人間は食べられない石より、食べることのできるバナナを選ぶ。
変質しない石は不老不死の象徴で、人間はバナナを選んだために、バナナのように腐りやすく脆い体になって、人間は死ぬ運命になった。
日本の神話でも同じようなはなしがある。
天と地の結婚、カミとヒトとの結婚に関して。
天孫ニニギは、国津神のオオヤマツミ((大山積神)から、娘のコノハナノサクヤビメ(木花咲耶姫)とイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を選ばせる。
ニニギは最初に薦められた醜い方のイワナガヒメを拒み、美しい方のコノハナノサクヤビメと結婚する。
コノハナノサクヤビメは花だが死ぬ存在で、イワナガヒメは石で不死の存在。
コノハナノサクヤビメという死ぬ運命の存在(バナナと同じ)を選んだことで、ヒトは死ぬ運命になった。
旧約聖書の創世記の、生命の樹(永遠の命)と知恵の樹(善悪の知識)の説話もバナナ型神話の変形らしい。
ヒトは知恵の樹という禁断の果実を選んだことで、永遠の命を失った。
永遠の命を選ばないということは、その対極である必然の死を選ぶことになる。
それは両立しないもの。
もしアダムとイヴが生命の樹を選んでいたら、ヒトは無知でイノセントなまま神に従って、エデンの園で永遠に幸せに暮らし続けたのかもしれな。
ただ、無知であるから、そのこと自体を知ることすらもできないのかもしれない。
脱線したけれど、そんなバナナを選んだことでヒトは死ぬことになったと神話は伝える。
ヤノマミの生と死の儀式がバナナの葉を介して行われることに似ていて、驚いた。
■1万年の思考
ヒトは、狩猟文化だけを続けていくか、農耕文化に移行していくかで大きく二つの道に分かれたのだろう。
農耕文化は、貯え、所有し、自然を制御することを覚えていく。
その果てに現代の都市生活が生まれたのだろう。
どちらがイイかワルイかなんて誰にも言えなくて、僕らは後者の世界の延長に生きているということは言える。
ヤノマミは狩猟文化を続けて、1万年前から変わらない生活をしている。
その中に、1万年のヒトの歴史が保存されている。
「1万年」と一言で言うのは簡単だけれど、その広大な時間の知恵と文化は、
映像を見ると驚かされるけれど、それも、同じヒトの営み。
自分がヤノマミ族として生まれれば、自分があちら側の人間だったのだろう。
いろんな世界が、同時並行に存在している。
時間と空間は、無限に近く枝別れしていて、その枝分かれのある時間と場所に、自分は立っている。
そんな「イマ・ココ」に、自分が存在している。
・・・・・・・・・・
この映像は、自分の価値観とか世界観とかを大きく揺さぶるすごい映像です。
自分もヒトだし、ヤノマミ族もヒト。
同じようで違うし、違うようで同じ。
「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」というDVDを購入した。
この番組は、2009年4月にNHKスペシャルで放映されたもので、反響が大きくて劇場公開もされ、それをDVDにしたもの。
当時のNHKスペシャルで見た時、自分がめくれるほどの衝撃を受けた。
「ヤノマミ族」とは、アマゾン最深部に1万年以上も独自の文化・風習を守り続けている部族のこと。
広大なジャングルに分散して暮らしているらしい。
「ヤノマミ」とはヤノマミ語で「人間」という意味。
取材陣に対しては「ナプ」と呼び、厳然と区別をしている。
「ナプ」は「ヤノマミ」ではない存在。そして、人間以下の存在らしい。
映像でも、「ナプ」である取材陣を前にして、「敵なのか」「味方なのか」と迫って問いながら、呪文のように歌い踊る映像があった。
原始的で呪術的な世界のリアルを感じた。
出産後では、胎盤をバナナの葉にくるみ森に吊るす。そして、アリに食べさせる。
『ヤノマミが言った
地上の死は 死ではない
人間は死ねば精霊になる
地上で生き 天で生き
最後は虫となって消える』
魂は死なず精霊となるが、精霊もやがて死ぬ。
最後は虫となって消える。
男性はハエやアリとなり、女性はノミやダニとなる。
■精霊
出産後、その生まれてきた存在を、「人間」として迎えるか、「精霊」として天に返すか、母親が決める。
周りはその理由を問わずにそのまま受け入れる。
「精霊」として天に返すときも、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、白アリのアリ塚にささげる。
白アリが食べつくしたあと、そのアリ塚を焼いて「精霊」になったことを天に報告する。
寿命や病気で人が死んだときも、「精霊」に戻すために同じことが行われる。
人は、元は精霊であって、精霊に帰る。
生まれてきて「人間」になるかどうかは、生んだものが決断する。
それは、「精霊」のままで天に戻ることもあり、「人間」として「ヤノマミ」になることもある。
動物も、精霊が形を変えて人間に何かを伝えにやってくると信じられている。
人間も動物も境界はすごく淡いけど、
10歳くらいの子どもがサルを自分でつかまえて丸焼きにして食べていたり。
それなりに衝撃的な映像が淡々と流れる。
そんな精霊の世界に満ちた世界で生きているヤノマミの映像は、僕らの深い場所のドアをコツコツとノックする。
■バナナ型神話
バナナの葉に包むのを見て、バナナ型神話を思い出した。
バナナ型神話とは、東南アジアなどで見られる死の起源神話。
「金枝篇」を書いたスコットランドの人類学者フレイザーが命名したもので、日本の神話にも、このバナナ型神話の変形がある。
バナナ型神話。
カミなる存在が、人間に対して石とバナナのどちらかを選ぶように言う。
人間は食べられない石より、食べることのできるバナナを選ぶ。
変質しない石は不老不死の象徴で、人間はバナナを選んだために、バナナのように腐りやすく脆い体になって、人間は死ぬ運命になった。
日本の神話でも同じようなはなしがある。
天と地の結婚、カミとヒトとの結婚に関して。
天孫ニニギは、国津神のオオヤマツミ((大山積神)から、娘のコノハナノサクヤビメ(木花咲耶姫)とイワナガヒメ(石長比売/磐長姫)を選ばせる。
ニニギは最初に薦められた醜い方のイワナガヒメを拒み、美しい方のコノハナノサクヤビメと結婚する。
コノハナノサクヤビメは花だが死ぬ存在で、イワナガヒメは石で不死の存在。
コノハナノサクヤビメという死ぬ運命の存在(バナナと同じ)を選んだことで、ヒトは死ぬ運命になった。
旧約聖書の創世記の、生命の樹(永遠の命)と知恵の樹(善悪の知識)の説話もバナナ型神話の変形らしい。
ヒトは知恵の樹という禁断の果実を選んだことで、永遠の命を失った。
永遠の命を選ばないということは、その対極である必然の死を選ぶことになる。
それは両立しないもの。
もしアダムとイヴが生命の樹を選んでいたら、ヒトは無知でイノセントなまま神に従って、エデンの園で永遠に幸せに暮らし続けたのかもしれな。
ただ、無知であるから、そのこと自体を知ることすらもできないのかもしれない。
脱線したけれど、そんなバナナを選んだことでヒトは死ぬことになったと神話は伝える。
ヤノマミの生と死の儀式がバナナの葉を介して行われることに似ていて、驚いた。
■1万年の思考
ヒトは、狩猟文化だけを続けていくか、農耕文化に移行していくかで大きく二つの道に分かれたのだろう。
農耕文化は、貯え、所有し、自然を制御することを覚えていく。
その果てに現代の都市生活が生まれたのだろう。
どちらがイイかワルイかなんて誰にも言えなくて、僕らは後者の世界の延長に生きているということは言える。
ヤノマミは狩猟文化を続けて、1万年前から変わらない生活をしている。
その中に、1万年のヒトの歴史が保存されている。
「1万年」と一言で言うのは簡単だけれど、その広大な時間の知恵と文化は、
映像を見ると驚かされるけれど、それも、同じヒトの営み。
自分がヤノマミ族として生まれれば、自分があちら側の人間だったのだろう。
いろんな世界が、同時並行に存在している。
時間と空間は、無限に近く枝別れしていて、その枝分かれのある時間と場所に、自分は立っている。
そんな「イマ・ココ」に、自分が存在している。
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この映像は、自分の価値観とか世界観とかを大きく揺さぶるすごい映像です。
自分もヒトだし、ヤノマミ族もヒト。
同じようで違うし、違うようで同じ。
…というか、21世紀の地球上に、アマゾンの奥地とはいえ、まだこうした世界があるところが驚く!農業革命さえ起きてない。
ぼくは、徹底的な「近代主義者」だとある日、決めたので(笑)。基本的に、近代化をダメダメな部分十二分に認めながらも、「やむなし」「しょうがないなー」と思いながら引き受けて、なるべく悪い部分を改善していくように生きているけど、それにしても、ここまで対照的だと、なんだか逆に参考になる。
というか、ちょうど、最近の事件=子供の置き去りや、高齢者の生存確認みたいなのが、近代社会の穴みたいなのを考えさせられる。
近代=〈個人〉の析出。個人の〈自由〉の概念の発明と啓蒙ってのが最大の魅力だと思うけど、
昔、マンガの「シティーハンター」で冴羽獠が記憶喪失で、戸籍がない…みたいな設定(古い記憶なので間違ってるかも)に、幼心に衝撃を覚えたのを思い出した。
というのも、「ぼくがここにいる」ということ=小学生に上がる前に市役所から「4月から○○君は、□□小学校に行ってください」って通知が来たことを、ある日、スゴイ不思議な(奇跡的な)ことだと思った。
自分が戸籍に登録されている事って究極的に、どう担保されてるんだろうって?何もなければ意識しないけど、それって、自分一人で証明できるモノなのか?(曖昧なとこあるから、いろいろ戸籍をめぐる詐欺とかあるんでしょうね。)
…あと、「幼児を精霊の名の下に天に召す」ってのは…
これは、専門的に知ってる人いればもっと深い解釈聞きたいけど、
ぼくの浅はかな「感覚」だと、(そして、近代的な用語に直すと)大人の、母親の、共同体の「防衛規制」の部分があるんじゃねえかな?と思う。
基本的に、生き物は、〈ムダって嫌い〉だと思う。無駄な殺傷とかしないと思う。ましてや知的生命体(仮に文字がなくても、言葉を話す)であれば、幼児を殺すことは基本的に傷つき、できれば行いたくない。でも、どうしても、やむなき「間引き」ってのがあって、それをオブラートでくるむ機能だと自分は解釈する。そこに超越的な神秘的な崇高な意義は、ぼくは、基本的に認めない立場です(近代主義者なので…)。
「アバター」も連想して思い出すけど、
基本的に前近代社会と近代社会という対立(…う~む、厳密に話し出すと注がいくつもつくなー)で、
対・社会や、自然含めた(循環する)システムの系では、前近代社会に学ぶ点は多々ある。が、対・人間(個人)の系では、基本的に近代の思想は1000年級に崇高なもので、これは(まだまだ理念が十全に発揮されてないのは承知の上でも)なかなか素晴らしいことなのではないかと思うのです。
つまり、前近代は、個人を析出させない限りで社会システムをサステナブルにするのは優れているけど、個人を認めるとなると(=人権!)、やむなく近代システムを使わざるを得ない。しかし、今の近代1.0では、地球の持続可能性に衝突するので、基本的に、僕らの世代は、〈個〉を認めつつ、地球と適応するように(その点で、様々な自然神話的な民族などの知恵に学びながら)近代、そう、近代2.0に進むべき…という見田宗介思想全開のコメントでした。
明治は1912年までだから、100歳の人って、明治・大正・昭和・平成って生きてるのか…、なんか、「年金」うんぬんって議論をするには、あまりに崇高な存在に思えてくる…。一定の長生きしたら、別のシステムに移行するとかがいいんじゃないかな~。
暑い夏の夜なのに、さらに熱くなるテーマだ、また長く話そう!
そうそう。
『農業革命さえ起きてない。』ってのがすごいと思ったんだよね。
周りではやってる人いるのかもしれんけど、そういうひとは出て行ったんだろうし。
狩猟を1万年続けて、それで生き延びているっていうのは、そこに人類の別の知恵のかたちがあるんだと思った。
ぼくも、「近代」は、なるべくしてなったんだと思ってます。
イイとは思わないけど、奴隷制も、帝国主義も、世界大戦も、その流れの中で起きていて、それはそれとして受け入れた上で、さあ僕らの世代はどうなるかっていうのを考えたい。
そういうときに、ヤノマミ的な世界観があるっていうのはひとつ参考にすべきだと思うのよね。
僕らは野生に戻れないし、ヤノマミも携帯とかアイポッドとかに行かないだろうけど、精神世界の面では大いに学ぶことがあります。
自分が戸籍に登録されている事って、たしかにすごいことね。
それそのものが間違ってたら、その人はどうなるんだろうっていう。
ひとりの人間としてのアイデンティティーは、社会的なアイデンティティーの影響を色濃く受けるだろうし。
まあ、確かに僕らから言えば「間引き」という位置づけになるんだけど、それこそ、向こうの方が歴史は古いわけで、考え方が根本的に違うんだと思うな。
人工調整とか、なんだかんだ色々言えるけど、「ヒトは、先に生まれたものがヒトと認めることでヒトとなる。それ以外は、全て精霊である」っていう強い共同体の哲学があって、それはまさしくヒトとはなにかの彼らなりの答えのような。なぜなら、彼れは獣と本当に共存しながら、それを時には食べながら生きていて、その線引きがすごく淡いんだよね。ヒトに対する古代の思考のようで。むしろ、僕らはそれを失って、むしろそれを考えないようにして生きているだけで、ふとした拍子にその「実存」とか「存在」とかの不安に脅かされると言う感じで。
なかなか奥深いテーマだねぇ。とにかく、ぜひ見てほしいなー。今度貸しますよ!
まわりにそこそこ食べ物があれば自分で作物を作る動機がないよ。
農業や牧畜はそうせざるを得なかったから始まったのですよ。
例えば寒冷化とか乾燥化とか。
まさにアマゾンはエデンの園なのです。
はじめまして。こんにちは。
なるほど、そうなのですね。
自分はあまりアマゾンにも詳しくないので、諸々、勉強になります。コメント、ありがとうございました。