日常

ギリシア神話―人の死

2008-12-14 15:16:00 | 考え
つい先ほど夜明けまで旧友と喋りまくってました。
つい先ほど長い入院生活の患者さんが亡くなりました。

■ギリシア神話の輪読会

ちょっと前まで岩波文庫のギリシア神話の輪読会をやってた。

ギリシア神話って、いろんな形で現代に根付いている。
ファミコン、セーラームーン、ビックリマンチョコ、漫画・・・・。なぜ時を越えてあのイメージが反復されるのかよくわからんかった。

でも、紀元前15世紀頃に口承形式で伝わっていたものが、時の政治や社会体制や・・色んなものをくぐりぬけて偶然や運と共に残ってきたのも、紛れない事実。


神話は神の話って漢字で書くけど、必ずしも神の概念が出てくる必要もないらしい。
大体、生粋の日本人である自分には、神という概念はよくわからんものでもある。むしろ、カミサマホトケサマの語感の方が、少しわかる気もする。


■『なぞなぞ』

昔から、世界は謎と不思議に満ちていた。
人間とは何か?時間とは何か?生きる・死ぬとは何か?極大の世界は、宇宙とは?極小の世界とは?・・・
今は自然科学(サイエンス)でその謎に答えようとしている気もするが、自然科学なんて比較的最近の文化なのだろう。縄文時代にも、その息吹のようなものはもちろんあったんだろうけど、現代的な科学は比較的最近な気がする。


何かしら『なぞなぞ』の問題をなげかけられたとき、答えがわからないと無性に気になる。答え自体があるかないかもわからんのだけど、自分にとって切実であればあるほど、無性に気になる。

そんな、この世界が自分に投げかけてきた『なぞなぞ』を日々感じて考えている。

きっと、太古の昔の人も『なぞなぞ』を解く営みをやっていた。
猿から発達した人類、古代ギリシア人、古代日本人・・・、脳みそがあり考えることができる人々は、そのなぞなぞに立ち向かっていた。ギリシア神話で、『朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足ってな~んだ?』というなぞなぞがあるのはそれを寓話的に象徴しているのかもしれん。


■神話 永遠に現在の中へ

「人間の始まりとか、道徳とか、社会とか、自然とか・・こんな感じじゃないのかなー。まあたたき台でこんなのどうでしょ?」
イマジネーション豊かな人々が夢想して空想して生まれ落ちた集合体の偶然の集まりが神話なのかもしれん。
それは、哲学とか文学とか医学とか科学とか芸術とか・・・分割されていく前の原始的な塊。


その中で多くの人の支持や共感を得たもの、この過酷で美しい現実に一番フィットしてそうなものが自然に選択されていって、時代や政治やいろんな思惑にも選択されていって、そして大きな運とか偶然の要素の元で残ってきたもの・・。それが神話のようなものなのか。


その神話で出てくる『なぞなぞ』のような世界の不可思議さは、時間と空間を超えた今でも、まったく同じものを感じている。そして考えている。
それは時空を超えて常に現在に生きている。永遠に現在の中に息吹いていて、永遠に同時進行している。

現在を過去の積み重ねと捉えるならば、過去の謎の塊全体が神話?
過去が積み重なったこの世界は迷宮で、神話という入口で現代からその迷宮に入っていくことができる?


ギリシア神話って、親兄弟殺しあり、近親相姦あり、浮気あり・・・もう何でもあり。
人間とか神とか動物とか自然の境界自体がかなり曖昧で、いつのまにか動物に変身したる神に戻ったり、常に境界を行き来している。

そういう生命や自然の原始的なもの。
道徳や倫理や社会や・・・そんなものができる以前の人間性そのもののような時代の余韻。 そこでは色んなトライアンドエラーがあって、その最果てに、過去は想像すらできなかった現在の高度に文明化された社会ができて、東京タワーも六本木ヒルズもできた。倫理もできた。道徳もできた。法律でもできた。貨幣もできた。色々できた。

そういう風に人間が変化してきたプロセス。
過去を生きて、その最果ての現在に生きているプロセス。
そのものが現在に生きていて、神話に詰まっているんだと思う。


民族はそれぞれの神話を持っている。僕らもそうだと思う。
それは風土とか自然とかと密接に関わるもので、過去の人もこの世界の迷宮に気づき、謎を解こうとした証でもある。
それは現在にも永遠に持ちこされてて、過去から渡されたバトンのようなもの。そのバトンを握りしめながら人生をもがきながら生き抜いて、次の世代へバトンを渡せばそれでいい。
そんなことを神話から感じた気がする。


・・・・・・・・・

■死

先ほど、ほぼ2年間入院していた患者さんが亡くなった。
心臓は先天的に悪くて、心臓移植とか心臓を取り換えない限り助からない。
高齢だからそれもできない。
日本には心臓移植の文化は馴染んでもいない。

最後は脳梗塞になって言語も発しなくなった。筋肉の動きも最小限になってきた。表情の動きも最小限になってきた。
時に発する数少ない言語は『ありがとう』、『家に帰りたい』だった。

人が自然な形で老いて、寿命を閉じていくとき、本当に自我が抜けていって、最小限のからっぽに近い肉体と精神になっていく気がしている。

表情は生き神のように神々しくなってくる。
それは、すごく穏やかで、すごく優しくて、すごく暖かくて、すごく緩やかに連続していて、全体を包み込むような表情になっている。
全てをゆるしたような表情。全てを受け入れたような表情。

仏とかカミとか、見たことないしあまりよくわからんけど、生き仏ってこんな感じなのかなぁと思うことがよくある。それは生命が燃え終わる最後の一瞬の輝き。すごく眩しくて、すごくキラキラしている。最後の一滴までエネルギーを放出している。

さきほどそういう表情を見た。
家族ともそんなことを少し話した。
そしたら、家族と一緒に泣けてきた。




ギリシア神話で考えたこと、考えている最中に患者さんが亡くなり感じたこと。
同時に感じて同時に思った。

こういうのが日常です。

2 コメント

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ご冥福をお祈りします。 (さくらば)
2008-12-14 16:42:24
死の床にある人に、寄り添う人は、神々しいという表現をあてたくなるというのは、神の起源になる、一番素朴な感情なのだろうかなと思いました。
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厳かで厳粛 (いなば)
2008-12-15 12:44:34
ありがとう。
しょっちゅうああいう現場に接していると、ドンドン麻痺してきて、むしろいい加減になっちゃう医療者も大勢いるんだけど、わしはああいう死の瞬間っていうのはそれなりに厳かで厳粛でありたいって当初から思ってるのよね。
ある人の人生の幕切れであり、終わりであるから。それは宗教感次第では旅立ちであり、始まりであるかもしれんし。

戦争もそうだろうけど、死にゆく人を大勢見たからって、厳かな思いや態度だけは絶対忘れたらいかんなって、常に初心に帰るようにしとります。

丁度ギリシア神話読んで神の概念とかいろいろ出てきたから、現実と合わせていろいろ考えさせられましたね。
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