時間という感覚。
こどものときに考えていたこと。
当時の自分は、自分の身体感覚の時間の中を生きていた。
そこに時計やカレンダーやグリニッジ天文台などの時間は必要なかった。
時間というものの本質で感じていたものは、時とは、自分の身体と宇宙の時間とが尺度になっているということ。
・・・・
何も尺度がない場所を想像してみる。
短期的な時間間隔で基準になるのは自分の呼吸のリズムと心臓のリズム。
長期的な時間間隔で基準になるのは昼と夜のリズムや四季のリズム。それは宇宙での地球の自転や公転のリズム。
発生学的にも人間の身体構造でも、光のリズムが内在化したものが人間の覚醒と眠りのリズム(時計遺伝子の時間)を形作っている。
だからこそ、時間間隔というのは呼吸のリズムと心臓のリズムで伸び縮みする。
いまここ、という時間間隔の本質は、そうした呼吸のリズムと心臓のリズムや、頭と体との対話・コミュニケーションにより達成されるものだ。
呼吸をゆっくり深くすれば、時間間隔は伸びるし、浅く早くすれば時間間隔は縮む。
長期的な視点を持つには、呼吸をゆっくりする必要がある。
呼吸が浅いと、どうしても短期的な視点になる。
個人が持つ時間間隔は、そうした身体の状況に否応なく左右される。
だから、呼吸法は生き方すら変えることがある。
生きているのは頭ではなく体の全体だから、体が変わると生き方まで変わることがあり、それを善用すると医療になり、悪用すると暴力になる。
・・・・・・・
「聴診で相手の心音を聞くとき、何を聞いているのか?」
と聞かれることがある。
局所的主には心雑音を判別しているのだがが、大局的には相手のリズムを聞いている。
・・・・・・・・・
目の前の人が<音楽>だと仮定する。
指揮者は?楽団は?リズムは?拍子は?音響は???
なぜこうした音楽になったのだろうか?その必然性は???
その人の調和の音を聞きに行くように。
生命がつくる調和の音は、必ずそこに必然性がある。
異常とされるものの中にも必然性があり、そこを細かく読み取っていく。
いのちの原理に従って、人は生きているのだから。
そうして聞くと、ノイズとされるものがいかに大事かということを聞き取ることになる。
その人にとってのノイズとは、意識できないもの、意識化されていないもの、そこに光が当たっていないもの、、、
日本の邦楽の本質は、こうしたノイズとされているものの中に無限の音響を感じ取ったことに起因する。
この自然界の音そのものを、自然の美として感じていた文化だからだ。
風の音、水の音、滝の音、雨の音、虫の音、光の音、、、、。
多様な音を同時に聞き取れるかどうか、ということは、人の体の多様な働きを同時に聞き取れるかどうか、ということと同じ。
呼吸や心臓のリズムを入り口として、人体には多様なリズムが内在していることを知る。
ひとは全体的で総合的なリズムを形作っている。それが人間のあり方であり、生命の流れのあり方でもある。
音そのものを聞くためには、自分の思考を沈黙させ、自分の中の自然を静寂にさせる。
そうした前提で耳をすまさないと、音は聞こえてこない。
沈黙の中での音は、体験しないとわからないが、体験している人には日常的なことだ。
武満徹さんの音楽を聴いていると、そういうことを感じる。
時を感じるには、
自然の音を聞き、自分の体の音を聞くことが、すべての基礎にあるように思う。
日々心音を聴診して、日々人の体の音を聞いていると、
生きている以上、どんな人の中にも、いのちそのものの調和の音が聞こえてくるからだ。
■
武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」
『私はまず音を構築するという観念を捨てたい。
私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。
私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。
そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。』
こどものときに考えていたこと。
当時の自分は、自分の身体感覚の時間の中を生きていた。
そこに時計やカレンダーやグリニッジ天文台などの時間は必要なかった。
時間というものの本質で感じていたものは、時とは、自分の身体と宇宙の時間とが尺度になっているということ。
・・・・
何も尺度がない場所を想像してみる。
短期的な時間間隔で基準になるのは自分の呼吸のリズムと心臓のリズム。
長期的な時間間隔で基準になるのは昼と夜のリズムや四季のリズム。それは宇宙での地球の自転や公転のリズム。
発生学的にも人間の身体構造でも、光のリズムが内在化したものが人間の覚醒と眠りのリズム(時計遺伝子の時間)を形作っている。
だからこそ、時間間隔というのは呼吸のリズムと心臓のリズムで伸び縮みする。
いまここ、という時間間隔の本質は、そうした呼吸のリズムと心臓のリズムや、頭と体との対話・コミュニケーションにより達成されるものだ。
呼吸をゆっくり深くすれば、時間間隔は伸びるし、浅く早くすれば時間間隔は縮む。
長期的な視点を持つには、呼吸をゆっくりする必要がある。
呼吸が浅いと、どうしても短期的な視点になる。
個人が持つ時間間隔は、そうした身体の状況に否応なく左右される。
だから、呼吸法は生き方すら変えることがある。
生きているのは頭ではなく体の全体だから、体が変わると生き方まで変わることがあり、それを善用すると医療になり、悪用すると暴力になる。
・・・・・・・
「聴診で相手の心音を聞くとき、何を聞いているのか?」
と聞かれることがある。
局所的主には心雑音を判別しているのだがが、大局的には相手のリズムを聞いている。
・・・・・・・・・
目の前の人が<音楽>だと仮定する。
指揮者は?楽団は?リズムは?拍子は?音響は???
なぜこうした音楽になったのだろうか?その必然性は???
その人の調和の音を聞きに行くように。
生命がつくる調和の音は、必ずそこに必然性がある。
異常とされるものの中にも必然性があり、そこを細かく読み取っていく。
いのちの原理に従って、人は生きているのだから。
そうして聞くと、ノイズとされるものがいかに大事かということを聞き取ることになる。
その人にとってのノイズとは、意識できないもの、意識化されていないもの、そこに光が当たっていないもの、、、
日本の邦楽の本質は、こうしたノイズとされているものの中に無限の音響を感じ取ったことに起因する。
この自然界の音そのものを、自然の美として感じていた文化だからだ。
風の音、水の音、滝の音、雨の音、虫の音、光の音、、、、。
多様な音を同時に聞き取れるかどうか、ということは、人の体の多様な働きを同時に聞き取れるかどうか、ということと同じ。
呼吸や心臓のリズムを入り口として、人体には多様なリズムが内在していることを知る。
ひとは全体的で総合的なリズムを形作っている。それが人間のあり方であり、生命の流れのあり方でもある。
音そのものを聞くためには、自分の思考を沈黙させ、自分の中の自然を静寂にさせる。
そうした前提で耳をすまさないと、音は聞こえてこない。
沈黙の中での音は、体験しないとわからないが、体験している人には日常的なことだ。
武満徹さんの音楽を聴いていると、そういうことを感じる。
時を感じるには、
自然の音を聞き、自分の体の音を聞くことが、すべての基礎にあるように思う。
日々心音を聴診して、日々人の体の音を聞いていると、
生きている以上、どんな人の中にも、いのちそのものの調和の音が聞こえてくるからだ。
■
武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」
『私はまず音を構築するという観念を捨てたい。
私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。
私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。
そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。』