日常

近況 雑多

2014-04-29 23:10:54 | 雑多
雑多な近況。
つながりがよくわからん・・・

Fcebookに書いちゃうことがあるけど、基本的にあれは『流れていく』ものだから。
ときどきまとめてブログにメモメモ。



◆◆つぶやき◆◆
(Twitterしなくなったから、突然つぶやきやくなるみたい。)


ひとは、どんな人も単層ではない。深みというものがある。単層に見えるのは、こちらがそう思いたいからそう見ているか、相手が無理してそういう人間像を作り出しているだけ。

ひとには言葉にできない様々なものを抱えて生きている。言葉は万能ではない。
だからこそ、言葉にならない(適切な言葉をあてることができない)相手の内なる深いコトバ(言の葉)を、深く読み取る必要がある。
それは意識がないように思える深い病の人、胎児、・・・通常のコトバでコミュニケートできない方々も同じことだ。
そこにプロフェッショナルとして追求する世界がある。

コトバへの深い認識が求められる。 

言葉は常に言い足りないし、常に言い過ぎるからだ。


いまのしゃかいは、「質」の問題を「量」の問題にすり替えてる。意識的なのか無意識的なのかわからないけど。 色んな場面でそういうのにそうぐうする。


ひとを罵倒する人がいる。だけど、まきこまれてはいけない。その人の隠し持つ「目的」を考えた方がいい。目的は「闘うこと」そのものにあるみたいだから。
今は「戦争のメタファー」としてのコトバがあふれてる。 勝ち負けとか、やっつけるとか・・・・。

もうそんな時代は終わる。今後は「友愛のメタファー」でものごとを考える。病気も同じ。死も同じ。

どんなことでも、勝ち負けの次元にいる限り、「権力争い」は永遠に終わらない。「争い」に敗れたものはかならず「復讐」の段階になるから。何かしらの復讐を画策して、報復行為に出るから。 
だから、その次元には最初から参加しない。




社会は<たての関係>から<よこの関係>にスライドしていくだろう。
たての関係は勝ち負けの関係。誰かを操作したいよくぼうがメイン。だから、他者の価値観にあわせた生き方を選ぶ。評価し評価される。だから「わたし」を見失う。

よこの関係は、同じでないけれど対等ということ。今後はそういう社会になる。他者を評価しない。評価したいひとは、そうして自分を承認しているようだ。
ありがとうという感謝の言葉、うれしいという素直な喜び、助かったとお礼の言葉。 こういう素直な感動や尊敬、喜びの言葉が、よこの関係からコトバだ。それが自然からやってくる声。



人生は他者との競争ではない。
誰とも競争することなく、比較することもない。
ただただ、それぞれが前と思う前へと、進めばいい。

他者との比較ではなく、「理想の自分」との比較をする。
他者のよくぼうを受け継いだEgoで他者とくらべるのではなく、全体的な「わたし」としてのSelfといまの状況とをくらべるだけ。


死のなぞは、誰もが主観的には「死」を永遠に体験できないというところにある。 そういう意味では、死は存在しない。 存在していると思っているのは誰かの死についてだ。そういう意味では死は存在する。 
「わたし」の「死」は、主観的には体験できない。永遠に。 パラドックス。 


ひとのこころとからだ、の講義の準備をしていたら、いろんなものが、深い場所からかってに浮かんできた。 自然の声。 



話をしていて気付いたこと。
ひとがほんとうに変わるとき、何か「痛み」を感じる。ある意味では「痛み」を感じない変化はない、と言ってもいいかもしれない。 痛みには抽象的なものも具体的なものもある。 

そして、たいていの人は「痛み」にマイナスのレッテルを張っているから、そこを巧みに回避しようとする。痛みを回避することと変化を回避することが似たものになる。

 ただ、痛みは必ずしもマイナスばかりではなくプラスの面もある。両方ある。 痛みを怖れるのは、死を怖れるのと似ている。マイナスばかり見続けているから、恐れの対象になるようだ。 社会もそういうものを増長しているのかもしれない。

痛みの効用には、プラスもマイナスもあるものだ。だからこそ、そこに可能性もあるし危険性もある。可能性があるからこそ、そこに賭けることができる。 

「痛み」はいまここに意識を集中させるための引き金。過去を回想するように、未来を夢想するように、あたまの中のスクリーンで「痛み」を上映して、抽象的な痛みを想像している人が多いような気がする。そして、それを他者の頭の中へと情報の転写をしている人が多いようだ。たらいまわしように。

痛みは、いまここに視点をうながし、何かをはっきり見ることを促している。それは解像度の問題だ。感覚の精度をあげると感覚は精妙となり、感覚の精度をさげると感覚は鈍くなる。 見ることを促す対象は、たいてい心だったり体だったりする。そして、たその人の『人生の嘘』を見ることを促されるようだ。

たいていの人はメッセージを受け取らない。不幸の手紙だと思うようだ。 玄関先で無視して追い返しているようなものだ。

受け取ること、読み解くこと、それぞれのプロセスに深い意味がある。
そのプロセスが個別的で主観的で一回性のものだから、ひとりひとりの人生は違うし、それぞれがオリジナルものになるのだと思う。
 


何かを否定するとき、存在の否定と行為の否定を混同する人が多いようだ。

行為を否定したり訂正するのはいいが、存在は誰にも否定されない。

そこは丁寧に言い過ぎて言い過ぎることはない。そういうことがいじめや自己否定の温床となる。

行為と同じように、自分の考えを否定されると、自分の存在を否定されたと思う人もいる。
話し手側も丁寧に言葉を添える方がいいし、受け手側も存在の否定ととらえる必要はない。

『あなたのこの行為はよくないと思う。ただ、これはあなたの存在を否定しているわけではないので誤解しないでほしい。あなたの存在はとても大切だ。』

すべての存在は、この世に生まれてきている以上、すべてが肯定されている。そのことは言い過ぎて、言いすぎることはない。





治療や治癒の現場というものは、自我が肥大していく場ではなく、自我がそぎ落とされていく場だと思う。

自分が誰かを治した、と思うと自我は肥大する。自我の肥大はとめどない。それは欲望が果てしないのと相似形だ。それは共依存の関係になり、そのクローズドシステムから二人は出られない。幽閉される。

治癒というもの。
治癒という奇跡が起きる現場に居合わせると、自我は肥大せず、むしろ自我は縮小し消えていく方向へ動く。自分が偉いとか治したとか、そういう優越意識(それこそが自我が見せる夢だ)はなくなる。

なぜなら、それは相手の内なる全体性が治癒という現象を求め、創造したのだから。こちらが治したのではなく、その人自身が治したからだ。 舞台も脚本も主演も、あくまでも相手のものだ。 
 
共同創造の場に居合わせたという奇跡に出会えたことを、純粋に共に祝えばいい。

そういう現象には、単純な因果関係を超えたもっと精妙で複雑な関係性がある。背後のコンステレーション(それぞれを星と見たとき、星座全体の布置)を見ると、単純な因果関係で治癒という現象は語れなくなる。むしろ、その精妙な関係性の前で謙虚になり、自我は純粋な形にそぎ落とされていくものだ。

今は、治す・治される、というものに医療はフォーカスしすぎている。そこに呪縛されている。その背後にある豊かな広がりや、人間の可能性にこそ、宝はある。深い深い海にもぐったからこそ、得られる真珠もある。








◆◆能 安田登さん◆◆

能楽師、安田登さんがお寺でやってる寺子屋の勉強会に行ってきた。天才すぎてすごかったー。

甲骨文字とかアッカド文字とか古代漢字とかサンスクリットとか・・・いろんな古代文字がたくさん出てきて勉強になったしおもしろかったし刺激受けたし興奮した。
場そのものが素晴らしい気に満ちていた・・・・。


安田登先生の「あわいの力」「身体感覚で「論語」を読みなおす。」は本当に面白い。。。

最初、みんなで能の謡曲「高砂」をうたった。安田先生の声が素晴らしかったー。ほんと度肝抜かれた。





「朧(おぼろ)月夜」

菜の花畠(ばたけ)に、入り日薄れ
見わたす山の端(は)、霞(かすみ)ふかし
春風そよふく、空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて、におい淡(あわ)し

里わの火影(ほかげ)も、森の色も
田中の小路(こみち)を、たどる人も
蛙(かわず)のなくねも、かねの音も
さながら霞(かす)める、朧(おぼろ)月夜



この歌詞をみんなで共有。


日本人は感情に振り回されず、すべてを風景に溶かしこんでいた。風景にこころを見ていた。
まさにこの「朧(おぼろ)月夜」はそうだなー。
にんげんのかなしいとかいかりとか、そういう浅い感情はまるで出てこない。風景そのものに溶け込んでいる感じ。

能や狂言ふくめ、日本の文化は深いなぁ。



◆◆村上春樹さんの新作◆◆



村上春樹さんの新作を読んでいる。
人間への精密で深いまなざし、圧倒的な観察力、緻密な描写力におどろく・・・。
こういう方と同時代に生きれてリアルタイムに作者の息遣いを感じながら読めることがうれしい。 
自分ももっと人間への深いまなざしを持たないといけないと、改めて思う。 
春樹さんを読んだら、次は安部公房、三島由紀夫を読みたくなった。


◆◆山川亜希子さんと木村まさ子さん◆◆

4/20は素敵な大人女性のお方のお話をうかがった。
山川亜希子(翻訳家)さんと木村まさ子さん(ことのは語り)。
とても素敵だった。
登壇しただけで。言葉を発する前に、すでに。 
洋服のすそから光が零れ落ちるような感じ。それは存在そのものが放つ力。
そういう人にとって、口から放たれる言葉はあくまでも補助的なもの。生きているだけで、すでにコトバを放っている。零れ落ちる溢れるものを、受け取るかどうか。

◆◆立花隆「宇宙からの帰還」(中公文庫)◆◆

当直の合間に立花隆さんの「宇宙からの帰還」(中公文庫) (1985/07)を読みふけって居たら朝になった。

この本、10年ぶりに読み直したら面白すぎる。。。翌朝の勤務が切れ目なく始まるけど・・・。



月に着陸した6人のパイロットは、それぞれが異常な神秘体験をして、地球への帰還後、まったく別の人生を歩み始める。

バズ・オルドリンは精神に異常をきたし、アル・ビーンは絵描き(月世界風景)になり、エド・ミッチェルは超能力研究家となり、
チャーリー・デュークは伝道家になり、ハリソン・シュミットは政治家になり、アーウィンはハイライト教会というキリスト教団体を設立した。。。 

それぞれの語る超越的な存在や神秘体験の語りは引き込まれる・・。


◆◆T.S.Eliotの詩◆◆



イギリスの詩人T.S.Eliotの詩も深いなぁ。 

フレイザー『金枝篇』の聖杯伝説を骨格として、聖書、ダンテ、シェイクスピア・・などの引用を散りばめ、
意識の流れの手法も用いて、第一次世界大戦後の荒廃した世界と救済への予兆を描きだしたのが『The Waste Land(荒地)』という作品。
末尾にはサンスクリット語も使用され、インド思想の影響もあるらしい。すごい人だ。


T.S.Eliot『The Waste Land(荒地)』(1922)
「いつもきみのそばを歩いている第三の人は誰だ?
数えてみると、きみとぼくしかいない
けれど白い道の先を見ると
いつもきみのそばを歩くもう一人がいる
フードのついた茶色のマントに身を包み音もなく行く
男か女かも分からない
‐‐だが、きみの隣にいるのは誰だ?」




in time of daffodils
E.E. Cummings

in time of daffodils(who know
the goal of living is to grow)
forgetting why,remember how

in time of lilacs who proclaim
the aim of waking is to dream,
remember so(forgetting seem)

in time of roses(who amaze
our now and here with paradise)
forgetting if,remember yes

in time of all sweet things beyond
whatever mind may comprehend,
remember seek(forgetting find)

and in a mystery to be
(when time from time shall set us free)
forgetting me,remember me

黄水仙の季節には
(生きる目的は成長することだと知っている人々よ)
<why>は忘れて
<how>を思い出してほしい

ライラックの季節には
目覚める目的は夢みることだと主張する人々よ
<seem>は忘れて
<so>を思いだしてほしい

バラの季節には
(パラダイスつきのぼくたちの now
ぼくたちの here に瞠目する人々よ)
<if>を忘れて
<yes>を思い出してほしい

心が理解しうる全てのものをこえて
こころよい全てのものが生まれる季節には
<find>を忘れて
<seek>を思い出してほしい

そして
在るというひとつの神秘のなかで
(ときどき時間から解放されるとき)
ぼくを忘れ そしてまた
ぼくを思い出してほしい


◆◆E. E. Cummingsの詩◆◆




エドワード・エスリン・カミングス(Edward Estlin Cummings, E.E. Cummings)の詩を読んでいる。霊感に満ちてるなー。

E.E. Cummings

i thank You God for most this amazing
day:for the leaping greenly spirits of trees
and a blue true dream of sky; and for everything
which is natural which is infinite which is yes

ありがとう。創造主よ。
この最高に素晴らしい日に、ありがとう。
元気に跳びはねまわる木々の精霊に、ありがとう。
天空に広がる青い真実の夢に、ありがとう。
自然で、無限で、Yesと肯定されるすべてのものに、ありがとう。




The Wind Is A Lady With
E. E. Cummings

the wind is a Lady with
bright slender eyes(who

moves)at sunset
and who―touches―the
hills without any reason

(i have spoken with this
indubitable and green person “Are
You the Wind?” “Yes” “why do you touch flowers
as if they were unalive,as

if They were ideas?” “because,sir
things which in my mind blossom will
stumble beneath a clumsiest disguise,appear
capable of fragility and indecision

―do not suppose these
without any reason and otherwise
roses and mountains
different from the i am who wanders

imminently across the renewed world”
to me said the)wind being A lady in a green
dress,who;touches:the fields
(at sunset)

風は明るいほっそりした眼をした
貴婦人である(彼女は

うごく)夕暮れに
そうしてお構いなく丘を
撫でて行く

(わたしはこの疑うこともできない緑の人と話したことがある「あなたは
風さん?」「ええ」「どうして生きていないように 花が思想のように

それらを撫でるの」「だって
わたしの心に咲くものは
とっても不器用な変装をしてるものにつまずいたり
もろくて優柔不断ばかりをやってしまうんです

特に理由もなくこういうことを
考えないでくださいよ
そうでなくても
薔薇や山は 私であるわたし
とはちがっていますからね わたしは新しい息吹をとりもどした世界を

こえてとびはねて息をはずませてやってきますがね」
と緑の衣装をまとった貴婦人の)風はわたしに言ったのだ
そして彼女は  野原を  撫でていく
(夕暮に)


◆◆山田和樹さん◆◆

小澤征爾さんにタクトを渡された山田和樹さん。
Bunkamuraでマーラー全曲演奏会をされるのか。。これは聞きに行かなきゃ。
しかも、大好きな武満徹さんの作品を組み合わせての全9回のプログラムというのが感動的。(自分みたいな一般人にチケットが買えるチャンスはあるのか?)



以前、山田和樹さん指揮の交響曲を聞いた時、生命を燃焼するようなスタイルに深い感動を覚えた。全身全霊という言葉はそう容易く使えない、というほどに。

「今日がこの世の終わり」を予感させるような指揮スタイルに深い感動を覚えた。
その通り。今日が最後の日じゃない保証は、どこにもない。
だからこそ、人は日々生きる。


******************
「山田和樹 マーラー・ツィクルス」
第1期 創生    

第1回 2015年1月24日(土)
武満 徹 :オリオンとプレアデス*
マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」※ハンブルク稿
   *チェロ:菊地知也
第2回 2015年 2月22日(日)
武満 徹 :混声合唱のための「うた」より数曲*
マーラー:交響曲 第2番 ハ短調「復活」**
  **ソプラノ:林正子
  **アルト:清水華澄
   *合唱:東京混声合唱団、武蔵野合唱団
第3回 2015年2月28日(土)
武満 徹 :3つの映画音楽 訓練と休息の音楽 『ホゼー・トレス』より
葬送の音楽『黒い雨』より
ワルツ『他人の顔』より 
マーラー:交響曲 第3番 ニ短調*
*合唱:栗友会合唱団、杉並児童合唱団

第2期 深化    
第4回 2016年1月30日(土)
武満 徹 :系図*
マーラー:交響曲 第4番 ト長調**
   *ナレーター:未定
  **ソプラノ:小林沙羅
第5回 2016年2月27日(土)
武満 徹 :ア・ストリング・アラウンド・オータム*
マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調
   *ヴィオラ:赤坂智子

第6回 2016年3月26日(土)
武満 徹 :ノスタルジア
マーラー:交響曲 第6番 イ短調「悲劇的」

第3期 昇華    
第7回 2017年5月14日(日)
武満 徹 :夢の時
マーラー:交響曲 第7番 ホ短調「夜の歌」

第8回 2017年6月4日(日)
武満 徹 :星・島(スター・アイル)
マーラー:交響曲 第8番 変ホ長調「千人の交響曲」*
   *ソリスト:未定
   *合唱:栗友会合唱団、武蔵野合唱団 他

第9回 2017年6月25日(日)
武満 徹 :弦楽のためのレクイエム
マーラー:交響曲 第9番 ニ長調



◆◆呼吸とちぎり絵◆◆

橋本雅子さんの呼吸ワークショップに参加。超絶たのしかった! 

橋本さんは切り絵作家さんでもあられるので、呼吸法の中に色彩のイメージがふんだんに出てきた。
しかも、色んな自然とつながる感じがさらに素敵で。
ブッダの呼吸法やビッパサナーをよくやる自分としては、新鮮な呼吸法だった!宇宙旅行しているような感じ!

普段から1分間に6-7回くらいの呼吸回数の自分も、ワーク後には1分間に3回の呼吸に減っていて驚いたー!

最後にみんなでやったちぎり絵ワークも超絶楽しかった!

呼吸の時に出てきたイメージをちぎり絵に。


呼吸を深く深くしたときは、深海へ深海へと深く潜るイメージだった。
同時に、なぜか銀河を旅する不思議なイメージでもあった。
しかも、深海にはなぜか青々とした山がそびえていて、しかも何故か、その山のど真ん中に巨大な太陽が鎮座していた。


そのイメージをそのままちぎり絵に!15分?くらいで急いで作って満足! ちぎり絵は無心になって超絶楽しかった。はまりそう・・・。

橋本さん有難うございました!今度友人にも行くよう色々と声かけますね! 
最後の、サンマーク出版の鈴木七沖さんの講演も素敵だったなぁ~!!(^^

(トップの写真は、そのちぎり絵です。)

2 コメント

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とてもよかったです。 (A. Ando)
2014-04-30 23:12:40
おっしゃるようにFBのことを、わかりやすくまとめられていて読みやすかったです。最近私自身も感じていることがあり共感いたします。  私自身も、ここ数ヶ月経験していたいろいろなことがありました。 自分の思い込みをクリアリングし、「何かを手放すことを恐れず、前向きで素直な気持ちで本質をみつめて前進すること」を選択したとき、それらが解決に向かい始めて、「あ~、人生や宇宙や銀河の法則」というものは、このようなことをいうのだなと感じています。  お陰様で、穏やかな日々を取り戻しております。 仕事をしておりますと、「忙しい仕事だから、食事に関しては、惣菜を買ってきたり、【外食】ばかりでもいいんじゃないの?」と言われることもありますが、「料理」が好きな人にとっては、それはあまりいい選択ではないですし、次第次第に体調も悪くなります。 体というものはよくできているもので、いわゆるファーストフードを食べているとそればかり欲しくなり、食事の幅も狭くなり、疲れやすくなり・・・いい考えも浮かびにくくなってきます。 そこから抜け出して、平和で健康な生活を取り戻すには、ちょっとしたきっかけと、周囲からのヒントと支え、共感し心を許しあえる人との友愛だと、このたびもつくづく感じました。 日々の出会いに心から感謝です。 うまくタイミングがあえば、先生のご講演も拝聴したいです。
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 (いなば)
2014-05-03 22:13:54
そうですね。やはり自分の心や体の声を聴くことに通じると思いますね。心も体も自然を介して宇宙や銀河の果てまでつながっているわけなので、それはどう表現してもいいと思いますし、それこそそれぞれの受け入れることができる「器」の問題なのかな、と思いますね。 

いづれにせよ、自分も日々「自然の声」を聴くようにしています。
外に出ると、花が咲いています。
「花」という存在次元での美しさに心奪われます。 世阿弥は常に「花のメタファー」で能や美や幽玄の世界を表現しましたが、ほんとうに「花」というのは美しいものだ、と、今日改めておもっていた次第です。(^^
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