
国立新美術館の中村一美展がすばらしかった。
解釈や理性を拒む抽象画。
そこで人は真の「不思議」を体験する。
人間の脳は、何かを見ると、そこに何か「かたち」を見いだしたり「意味」を見いだしたりする習慣がある。
人間はたいてい自動運動にしばらている。オートからマニュアルに切り替えるのはそう容易くない。
ただ、そこにこそ人体の神秘は隠されている。
中村一美さんの絵は、そんな脳の勝手な解釈や意味づけ。理性の働きを巧みにすりぬけてかわし続ける抽象画だった。
電波が通じないところで携帯電話が勝手に電波を探し続けるように、脳は絵画空間で意味や形を勝手に探し続けるのだ。
だけれど、脳は何も意味を見いだせない。
そのことはある種の自由でもある。
意味が生まれる手前に脳は誘われる。そこで脳は胎児体験をする。
脳が作り出す思考体系や言語体系は、一種の「夢」。
そうして、大人は子供の自由さを忘れ、「誰かの夢」を見続ける事になる。
ただ、それはいづれ醒めなければいけない誰かの夢。
中村一美さんの絵は、空間そのもので体験する絵だった。
自分の夢を見て、その上で目が覚める体験をする絵だった。
歩く瞑想でもあった。
思考や価値や意味という重力圏から自由になる、宇宙遊泳のようなものだった。
絵を見ると理性が停止し、夢と現のあわいを生きるような感覚になる。
展示を見終えた時、宇宙旅行から地球に降り立ったような感覚があった。地球では重力があったことを思い出すように。
それほど、空間が織りなす「不思議」は、圧倒的だった。
思わず図録も買ったが、ほんとうは空間そのものを体験してほしいと思う。ロスコの絵画世界に近い。
南方熊楠が
「不思議ということがある。事不思議がある。物不思議がある。心不思議がある。理不思議がある。大日如来の大不思議がある。」
といった世界だと思う。熊楠は、南方マンダラという不思議な図形で表現した。そのことをふと思い出した。
空間そのものを体験してほしい。
解釈や理性を拒む抽象画。
そこで人は真の「不思議」を体験する。
人間の脳は、何かを見ると、そこに何か「かたち」を見いだしたり「意味」を見いだしたりする習慣がある。
人間はたいてい自動運動にしばらている。オートからマニュアルに切り替えるのはそう容易くない。
ただ、そこにこそ人体の神秘は隠されている。
中村一美さんの絵は、そんな脳の勝手な解釈や意味づけ。理性の働きを巧みにすりぬけてかわし続ける抽象画だった。
電波が通じないところで携帯電話が勝手に電波を探し続けるように、脳は絵画空間で意味や形を勝手に探し続けるのだ。
だけれど、脳は何も意味を見いだせない。
そのことはある種の自由でもある。
意味が生まれる手前に脳は誘われる。そこで脳は胎児体験をする。
脳が作り出す思考体系や言語体系は、一種の「夢」。
そうして、大人は子供の自由さを忘れ、「誰かの夢」を見続ける事になる。
ただ、それはいづれ醒めなければいけない誰かの夢。
中村一美さんの絵は、空間そのもので体験する絵だった。
自分の夢を見て、その上で目が覚める体験をする絵だった。
歩く瞑想でもあった。
思考や価値や意味という重力圏から自由になる、宇宙遊泳のようなものだった。
絵を見ると理性が停止し、夢と現のあわいを生きるような感覚になる。
展示を見終えた時、宇宙旅行から地球に降り立ったような感覚があった。地球では重力があったことを思い出すように。
それほど、空間が織りなす「不思議」は、圧倒的だった。
思わず図録も買ったが、ほんとうは空間そのものを体験してほしいと思う。ロスコの絵画世界に近い。
南方熊楠が
「不思議ということがある。事不思議がある。物不思議がある。心不思議がある。理不思議がある。大日如来の大不思議がある。」
といった世界だと思う。熊楠は、南方マンダラという不思議な図形で表現した。そのことをふと思い出した。
空間そのものを体験してほしい。