日常

思い出す

2013-02-22 22:32:08 | 雑多
色んな人に会うことがある。
仕事上の付き合いでも、個人的な付き合いでも。
そのたびに、面白い!と、思う。

自分はやはり、人間が好きなのだ、と改めて思う。
それが医療の仕事をやる原点になっている。


どんな人にでも、表面だけでは計り知れない深さがある。
浅そうな人にも、浅そうに見せるだけの謎めいた深さがある。
それは、自分が「深さ」を見ようとするかどうかの態度の問題だ。どんなものでも、必ずや深さがある。
2次元なのか、3次元なのか。2次元に深さを加えると3次元になる。
はたまた、それとも4次元以上なのか。


人間の深さを思うと、どんなものでも興味深く面白く楽しい。


仕事上で、病気とされる人と会う事が多い。

いつのまにか、「病気」は否定的(ネガティブ)な概念となった。
いつのまにか、「死」も否定的(ネガティブ)な概念となった。

ただ、自分はそう思ったことは一度もない。

おそらく、この世の森羅万象は本来的にニュートラルなものだ。
僕らはすでに、全ての物事を知っている。
あとは思い出せるかどうかだけだ。
僕らはすでに、全ての物事を知っている。
それは誰もがこころの内側深くを覗くと、分かることだ。
お天道さまは、しっている。


ニュートラルな事象である病気や死。
ただ、自分は肯定的(ポジティブ)な意味さえ、そこに感じている。
どちらも、ある種のサインであり、シンボル。
万物には深い意味がある。
シンボルにはポジティブな意味もあり、ネガティブな意味もある。ニュートラルな意味もある。
どこをフォーカスするのか、選択するのか。


ものごとの深さを思えば、どんな出来事にも深さを感じることができる。

この宇宙の計り知れない広さと深さを思えば、必然の成り行きだと思う。
目をつぶるだけで、僕らはそんな多次元の世界に移動できる。


死んだら、僕らの外的世界は内的世界になり、内的世界は外的世界へと反転するかもしれない。
外に広がる植物界や自然界や宇宙は、死んだあとの内的世界へと反転する。

だから、生きている間には外的世界のことを一生懸命学ばなければいけない。それは自分の内面世界への土壌となる。
自分は日々学ぶ。そして日々成長する。

内と外は反転する作業を繰り返しながら回転し続ける。
回転は動的なプロセスだが、回転しているコマは止まって見える。それは静止のプロセスだ。
内と外が一つになるように、動と静も一つになり、生と死も一つになる。

階段を一段ずつ登るように、言語の獲得により生まれた二元世界は、ひとつずつ、ひとつになる。


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明日から、諸々の用事で神戸に行ってきます。
ついでに、念願の横尾忠則現代美術館にもブラリと寄ってきます。
(ただ、2月18日‐3月1日は展示替中らしく、「開館記念展I 横尾忠則展「反反復復反復」 二度ある美は、三度ある。」と「開館記念展II 横尾忠則展「ワード・イン・アート 字は絵のごとく 絵は字のごとく」の溝にはまってしまう・・・)