村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」新潮社(2013/4/12) 、素晴らしかった・・・・。(英語のタイトルは、「Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage」)
やはり春樹さんの本は大好きだ。美しい音楽を聞いているような文章。
そして、人間の深い魂を見つめる視線とその表現力に脱帽。日常生活を送っている通常の意識状態だけで読むと、春樹作品は10%くらいしか味わえないような気がする。(それでも十二分におもしろいのだけど)
物語は常にメタファーと共に語られる。文字を追うだけでなく、文字が持つイメージを立ちあげながら、自分だけの記憶ではなく神話的な記憶を立ちあげながら映画を観るように。喚起されるイメージを読者が自分で立ち上げて行く作業も求められている。
共同作業のようなものが、村上春樹さんの小説世界に深い陰影を与える。ユーミンの音楽を聞いていると、同時に映像(イメージ)が浮かんでくるのと似ている。それは、作者が見ているはずのイメージを共有しながら、同じ想像世界に共に生きる事も意味する。
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荒井由実 - やさしさに包まれたなら
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
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(ふとした拍子にこの詞を思い出す・・・)
・・・・・・・・・・・
村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」新潮社(2013/4/12) の読後、総じて感じた事を羅列。
・人間は、心だけではなく、肉体だけではなく、「魂」と表現せざるを得ない全体性を持つ。
・魂は、僕らの意識と無意識の全体でもある。意識は分かりやすく、無意識は分かりにくい。分かりやすいから意識世界に存在しているし、分かりにくいから無意識世界に存在している。無意識の世界の断片は、倫理や常識という尺度では嫌悪感を感じることがある。
・無意識は見えにくい。そこには通常では見たくない色んなものが隠されている。ただ、自分の中で何かしらの感情が引き起こされると言う事は、そこに大切な何かが隠れている。
・無意識の「何か」は、それが自分の中にあることを認識するだけで、それは自分の中で統合される。統合される瞬間は「痛み」を感じることがあるが、それは何かの反応が起きているしるしでもある。勇気を持ってそれを受け入れればいい。
・「無意識」に無理やり押し込められたものは、意外な形で外部に噴出してくることがある。性や暴力や怒りは、そういうわけのわからない形で顕在化しやすい。混沌とした未分化な象徴として、ある。
・性や暴力や怒りは、適切な形で自分の中に調和的に取り入れられる事が必要となる。それは誰の中にもある。それぞれの適切な格納庫におかれている必要がある。
・自分の体全体に起こる反応は、自分の「こころ」で起きている反応が顕在化したもの。そうして、人間は身体全体、こころ全体で対話している存在。対話は無視したり延期したりすることもできるけれど、先に延ばせば延ばすほど、多層的に積み重なって複雑な症状や病いとして顕在化してくる。
・「性」も「聖」も人間の魂にとって共通に大切なものである。
・人間が何かを測る尺度として「男」と「女」という尺度がある。僕らは社会的にも肉体的にも、どちらかの性別として生きる事を求められるが、内的世界では「女性性」も「男性性」も持つ両性具有の存在。そのことを通常の日常的な意識レベルでとらえるとわけがわからなくなる。
・現実の意識も夢の意識も死の意識も、すべては同時に、いまここに層状に重なって存在している。
・人間は「女性性」「男性性」という軸だけではなく、「赤ん坊」「子供」「少年」「青年」「成人」「老人」「死者」「神」・・・・いろんな成長の段階と軸を同時に内在し内包させている。元々存在しているものを、僕らは生長の歩みと共に発見していく。ひとつに統合していく。
・成長とは、単に時計の時間が先に進んでいくことだけを意味するのではない。自分の中の多重的な存在が互いに対話をし、共生し、調和すること。それは神話的な時間に近くなる。時計の針が刻む時間は便宜的なもの。時の歩みは必ずしも時計の針とは一致しない。
・内的世界では、女性性と男性性の結婚が必要とされる事がある。結婚とは適切な形で一つになること。二つと一つが矛盾なく同居すること。
・内的世界で起きている事は深くて深ければ通常の意識では把握できない。「象徴」的な形で外の現象として認識されることがある。
・深い内的世界を、自然現象として外部世界で認識することもあれば、旅などの象徴的に移動する行為で認識する事もある。
・巡礼とは、魂を巡る旅である。外的世界での象徴的な行為である。それは誰もが通過するプロセス。いつのまにか線路のレーンは切り替わっている。
・人間の魂が成長していくためには、魂は便宜的に一度失われ、損なわれてしまう事もある。
・ただ、いづれその魂の断片(soul fragments)を取り戻し、再創造する時がやってくる。それは必ずやってくる。その主体は、常に自分自身。そのプロセスには痛みや悲しみを伴う事もあるが、それは誰かの中を通過した感情が自分の中にも通過しているしるしでもある。それは自分だけの経験ではない。最終的には、自分の中で統合されていく。時にはじっと身をひそめ、耳をすますこと必要もある。
・性の本質は【対極(両極性)の合一】。性をあくまでも体レベルの問題に限定する限り、時間の支配から抜けられない。だから性の快楽は一過性のもの。その幻影を時間とともに追い続ける羽目になる。通常世界でもネット世界でも性の問題が氾濫するのはそのため。
・時間の支配から抜けるには【対極(両極性)の合一】を精神や魂のレベルで行う必要がある。そこには時計で測るような時間の概念はない。空間の概念もない。それは永遠や無限に通じる。それは神話的で宇宙的な場所でもある。
・体レベルでの性行為は【対極(両極性)の合一】の一つの側面でしかない。ただ、ほとんどの人が【対極(両極性)の合一】の象徴性を学ぶきっかけとなるのが肉体的な性レベルでもある。注意を向けると同時に、そこにとらわれてはいけない。
・だからこそ、人間の関心事、悩み、葛藤・・・の中心テーマとして、性やパートナーシップが常に問題になる。人間が原理的に抱えている問題が【対極(両極性)の合一】(肉体、精神、魂、いづれのレベルにおいても)だからだと思う。
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特にこの春樹さんの作品で感じた事は、「ノルウェイの森」に連続した世界観であるということ。
⇒映画「ノルウェイの森」(2011-02-26)
この現実世界に対する表現もあって驚いた。
金儲けや精神支配だけが目的のセミナー(コーチングの一部?)も「都合の良い思考システムの催眠的注入」との表現があったり、地下鉄サリン事件のことも間接的に触れていた。時にこの現実世界とのリンクもあり、春樹さんの作風としての小説世界そのものとしても変化だと思った。
マジックリアリズムとリアリズムとを自然な形でスムージングジュースとして飲んでいる感じ。ミントとゴーヤの香りが混ざるような独自の味。
春樹作品を強く拒否する人がいるのも分かる気がする。
春樹さんの文章は人間の深いところを揺さぶるし、その深い場所は日常レベルとは違う深い場所だから、通常の規範、常識、世間、・・などを軸に物事を考える人は、その寄る辺としての支えの軸を深い場所から大きく揺さぶられる感じがするのかもしれない。
人間に奇妙な身体症状として外部化してくる事柄は、こころや魂の深い領域で受け入れなかったものが、自分たちの存在を主張するため、メッセージとしてシグナルとして表世界に現れているもの。そのことに気付くと人間は生きやすいのだけど(自分自身と調和的に生きる事が出来る)、そこを見ないふりをしていると辛く苦しいものだ(自分自身と調和的に生きる事ができない)。
眠っている時に上映される「夢」は、顕在意識のブロックが外れるすきを見て、自分自身が自分自身に送ってくるメッセージやシグナル。春樹作品は、個人的な「夢」を、本として活字として見せられている気がするから、拒否反応を示す人がいるのだろう。その拒否反応を示す主体は何?脳?体?心?魂?誰?
「悪夢」という言葉がある。ただ、この自然界や宇宙界に「善」や「悪」という色分けはそもそも存在しない。宇宙は人間とは無関係に動いている。人間の意識活動のプリズム光のように価値観は現れる。すべては中性でありニュートラルである。善や悪は、個人的な意識活動や、集合的な意識活動が引き起こす感情の色どり。この世には色は無限にある。 だから、自分の中で適切に受け取られれば「悪夢」は存在しない。「善夢(ゼンム)」が存在しないように。「夢」はあくまでも、原理的に「夢」であり続ける。そんな「夢」を通常の意識レベルで読めるように料理し配達しているのが、村上春樹という存在であり、読み手が無意識に求めているものなのだと思う。
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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」より
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自分自身の価値を追求することは、単位を持たない物質を計量するのに似ていた。
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「それが存在し、存続すること自体がひとつの目的だった。」
「たぶん」
沙羅は目を堅く細めて行った。
「宇宙と同じように」
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「つまり一種の架空の存在として。肉体を固定しない観念的な存在として。」
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「限定された目的は人生を簡潔にする」
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→春樹さんの魅力は、登場人物の対話にある。
登場人物の対話を、僕らが心や魂の奥底で無意識に行っている対話と重ね合わせて読むと、春樹さんの作品世界の深さが感じられる。
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まわりは見渡す限り、荒ぶれた岩だらけの土地だった。
一滴の水もなく、一片の草も生えていない。
色もなく、光らしい光もない。
太陽もなければ、月も星もない。おそらく方向もない。
得体の知れない薄暮と底のない闇が、一定の時間をおいて入れ替わるだけだ。
意識あるものにとって究極の辺境だ。
しかし同時にそこは豊饒な場所でもあった。
薄暮の時刻には、刃物のようにとがった嘴をもった鳥たちがやってきて、彼の肉を容赦なくえぐり取っていった。
しかし闇が地表を覆い、鳥たちがどこかに去るとその場所は、彼の肉体に生じた空白を、無音のうちに代替物で満たしていった。
新たにもたらされた代替物が何であれ、つくるはその内容を理解することも出来なければ、容認も否認もできなかった。
それらは影の群れとして彼の身体に留まり、影の卵をたっぷりうみつけて行った。
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いずれにせよ、そのようにして彼は、「たざき・つくる」という一個の人格になった。
それ以前の彼は無であり、名前を持たぬ未明の混沌に過ぎなかった。
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→
人間の精神の中では、生や死が不断に繰り返されている。
何かが死んで何かが生まれ、何かが生まれるときに何かが死んでいる。
心の奥底では、さまざまなものが輪廻しながら、人間の成長を支えている。
生や死という現象は、常識や決まり切った考えではなく、先入観を無くしてそれぞれが取り組む必要がある。
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「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体と言う限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです。」
「ずいぶんむずかしそうだね」
灰田は首をふった。
「いいえ、考えようによっては、とくにむずかしいことではありません。多くの人が時に応じて知らず知らずでそれを行い、そうすることでなんとか正気を保っています。ただ、自分がそうしていることに本人が気づかないだけです。」
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「どんなことにも必ず枠というものがあります。思考についても同じです。枠をいちいち恐れる事はないけど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何よりも大事になります。枠に対する敬意と憎悪。人生における重要なものごとというのは常に二義的なものです。僕に言えるのはそれくらいです。」
「ひとつ質問したい事があるんだけど」とつくるは言った。
「どんなことでしょう」
「様々な宗教において預言者は多くの場合、深い恍惚の中で絶対者からのメッセージを受け取る」
「そのとおりです」
「それは自由意志を超越したところで行われる事だね?あくまで受動的に」
「そのとおりです」
「そしてそのメッセージは預言者個人の枠を超えて、広く普遍的に機能することになる」
「そのとおりです」
「そこには背反性もなければ二義性もない」
灰田は黙って肯いた。
「ぼくにはよくわらないんだ。だとすれば人間の自由意志というのは、いったいどれほどの価値を持つのだろう」
「素晴らしい質問です」と灰田は言った。そして静かにほほ笑んだ。それは猫が日向で眠りながら浮かべる微笑みだった。
「ぼくはまだその質問に答えられません」
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「どんなに穏やかに整合的に見える人生にも、どこかで必ず大きな破たんの時期があるようです。狂うための期間、と言っていいかもしれません。人間にはきっとそういう節目みたいなものが必要なのでしょう。」
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「いづれにせよ、僕らはここで仮説について話しています。その話を追求していくには、もっとはっきりした具体例が必要になります。橋に橋げたが必要なように。仮説というものは先に行けば行くほどもろくなり、出される結論はあてにならないものになっていきます。」
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→
この登場人物の対話には、深く考えさせられた。宗教や信仰の本質を巡る対話が自然にすべり込ませている。思わずうなる。
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ただの虫歯一本で、肩こり一つで、すべての美しいヴィジョンと響きが、ひゅっと無に帰してしまうんだ。人の肉体はかくのごとく脆いものだ。
そいつはおそろしく複雑なシステムとして成り立っているし、些細なことでしばし損なわれる。
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「(死のトークンのようなものを受け取り)死を引き受けることに合意した時点で、君は普通でない資質を手に入れることになる。特別な能力と言ってもいい。
人々の発するそれぞれの色を読み取れるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にあるのは、君が君の知覚そのものを拡大できるという事だ。
君はオルダス・ハクスレーが言うところの『知覚の扉』を押し日たくことになる。
そして君の知覚は混じりけのない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯瞰することになる。」
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「・・・いったんそういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景には論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体と言う枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚でもある。」
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→
春樹さんの肉体や精神を見つめる視線は深い。
この辺りは、「裏の医学」が到達している世界に近接している。自分の研究対象との類似。
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「実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。そこには中間ってものはない。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ」
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「あなたはナイーブな傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ。」
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→春樹さんの作品は、忘れられない台詞が多い。頭の中でリフレインする。
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要するに企業戦士を養成するための即席お手軽洗脳コース。教典のかわりにマニュアルブックを使用し、悟りや楽園のかわりに出世と高い年収を約束する。
プラグマティズムの時代の新宗教ね。しかし宗教のように超越的要素はなく、すべては具体的に理論化、数値化されている。とてもクリーンで、わかりやすい。それでポジティブに鼓舞される人も少なからずいる。
しかしそれが基本的に、都合の良い思考システムの催眠的注入である事に変わりない。
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「順調かどうかはともかく、少なくとも着実に前には進んでいる。
言いかえれば、後戻りはできなくなっている。」
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それは形を持たない、透き通った悲しみだった。彼自身の悲しみでありながら、手の届かない遠い場所にある悲しみだった。
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極力、核心部分に迫る台詞は引用しないように気をつけました。春樹世界の片鱗は感じられるかと。
読後、「ノルウェイの森」を思い出しました。
⇒映画「ノルウェイの森」(2011-02-26)
春樹さん作品は、どれも全部読んでほしい。「よくわかない」と思いながらも読んでほしい。
寝ている時に夢を見ても「よくわからない」と思っている人は特に読んでほしい。
夢は誰もが強制的に見るけれど、小説はあくまでも自発的に自主的に見るもの。そこが少し違う。
性を肉体的レベルだけに限定しない方がいい。そうなると、春樹作品は、自分の内部にある影(性や暴力や怒り)を投影する器として機能するだけで終わってしまう。
春樹さんは性を【両極性の合一】の象徴表現と重ねて書いている。
大切な事は外にはない。中にある。
肉体レベルの性は、あくまでも気づきや意識の転換のきっかけにすぎない。それは天国から地獄にまで通じている。
春樹さんはそのことを丁寧に書いている。人間に普遍的な事柄を書いている。夢を読み解く作業は、読み手に託されている。
春樹さんの作品を読んでいると、魂の深い場所に何かが通過し、何かが組み替えられ、癒され、「風」が通過した感覚が深く残る。風の歌が聴こえる。
春樹さんの作品には聖婚(Hierosgamos)のメタファーに満ちている、と思う。
自分の内なる女性性(アニマ)と男性性(アニムス)との結婚。それは魂の深い場所だけで起こる事。
ユングは、人間は魂そのものを認識することは絶対に出来ないと喝破した。その代わり、男性は魂そのものを女性のイメージ(アニマ)として認識することがあり、女性は魂そのものを男性のイメージ(アニムス)として認識することがあると言った。
日常レベルでの「性」ではなく「聖」の世界。意識の切り替えが必要。神話的時間の流れる場所。
そういう結合や分離、融合や溶解を繰り返しながら、人間は成長していくのだと思う。
日常意識でも夢見の意識でも、自分の体も心も魂は自分自身をよりよく成長させるために、常に手助けをしてくれているのを感じる事ができる。
そういう素晴らしい肉体と精神と心と魂を持って、僕らはこの世に生まれてきている。あとは自由自在に使いこなし、自由自在に乗りこなす術を、少しずつ少しずつ、失敗と反省を繰り返しながら謙虚に学んでいくだけだ。
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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
「悪いこびとたちにつかまらないように」
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やはり春樹さんの本は大好きだ。美しい音楽を聞いているような文章。
そして、人間の深い魂を見つめる視線とその表現力に脱帽。日常生活を送っている通常の意識状態だけで読むと、春樹作品は10%くらいしか味わえないような気がする。(それでも十二分におもしろいのだけど)
物語は常にメタファーと共に語られる。文字を追うだけでなく、文字が持つイメージを立ちあげながら、自分だけの記憶ではなく神話的な記憶を立ちあげながら映画を観るように。喚起されるイメージを読者が自分で立ち上げて行く作業も求められている。
共同作業のようなものが、村上春樹さんの小説世界に深い陰影を与える。ユーミンの音楽を聞いていると、同時に映像(イメージ)が浮かんでくるのと似ている。それは、作者が見ているはずのイメージを共有しながら、同じ想像世界に共に生きる事も意味する。
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荒井由実 - やさしさに包まれたなら
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
小さい頃は神さまがいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
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(ふとした拍子にこの詞を思い出す・・・)
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村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」新潮社(2013/4/12) の読後、総じて感じた事を羅列。
・人間は、心だけではなく、肉体だけではなく、「魂」と表現せざるを得ない全体性を持つ。
・魂は、僕らの意識と無意識の全体でもある。意識は分かりやすく、無意識は分かりにくい。分かりやすいから意識世界に存在しているし、分かりにくいから無意識世界に存在している。無意識の世界の断片は、倫理や常識という尺度では嫌悪感を感じることがある。
・無意識は見えにくい。そこには通常では見たくない色んなものが隠されている。ただ、自分の中で何かしらの感情が引き起こされると言う事は、そこに大切な何かが隠れている。
・無意識の「何か」は、それが自分の中にあることを認識するだけで、それは自分の中で統合される。統合される瞬間は「痛み」を感じることがあるが、それは何かの反応が起きているしるしでもある。勇気を持ってそれを受け入れればいい。
・「無意識」に無理やり押し込められたものは、意外な形で外部に噴出してくることがある。性や暴力や怒りは、そういうわけのわからない形で顕在化しやすい。混沌とした未分化な象徴として、ある。
・性や暴力や怒りは、適切な形で自分の中に調和的に取り入れられる事が必要となる。それは誰の中にもある。それぞれの適切な格納庫におかれている必要がある。
・自分の体全体に起こる反応は、自分の「こころ」で起きている反応が顕在化したもの。そうして、人間は身体全体、こころ全体で対話している存在。対話は無視したり延期したりすることもできるけれど、先に延ばせば延ばすほど、多層的に積み重なって複雑な症状や病いとして顕在化してくる。
・「性」も「聖」も人間の魂にとって共通に大切なものである。
・人間が何かを測る尺度として「男」と「女」という尺度がある。僕らは社会的にも肉体的にも、どちらかの性別として生きる事を求められるが、内的世界では「女性性」も「男性性」も持つ両性具有の存在。そのことを通常の日常的な意識レベルでとらえるとわけがわからなくなる。
・現実の意識も夢の意識も死の意識も、すべては同時に、いまここに層状に重なって存在している。
・人間は「女性性」「男性性」という軸だけではなく、「赤ん坊」「子供」「少年」「青年」「成人」「老人」「死者」「神」・・・・いろんな成長の段階と軸を同時に内在し内包させている。元々存在しているものを、僕らは生長の歩みと共に発見していく。ひとつに統合していく。
・成長とは、単に時計の時間が先に進んでいくことだけを意味するのではない。自分の中の多重的な存在が互いに対話をし、共生し、調和すること。それは神話的な時間に近くなる。時計の針が刻む時間は便宜的なもの。時の歩みは必ずしも時計の針とは一致しない。
・内的世界では、女性性と男性性の結婚が必要とされる事がある。結婚とは適切な形で一つになること。二つと一つが矛盾なく同居すること。
・内的世界で起きている事は深くて深ければ通常の意識では把握できない。「象徴」的な形で外の現象として認識されることがある。
・深い内的世界を、自然現象として外部世界で認識することもあれば、旅などの象徴的に移動する行為で認識する事もある。
・巡礼とは、魂を巡る旅である。外的世界での象徴的な行為である。それは誰もが通過するプロセス。いつのまにか線路のレーンは切り替わっている。
・人間の魂が成長していくためには、魂は便宜的に一度失われ、損なわれてしまう事もある。
・ただ、いづれその魂の断片(soul fragments)を取り戻し、再創造する時がやってくる。それは必ずやってくる。その主体は、常に自分自身。そのプロセスには痛みや悲しみを伴う事もあるが、それは誰かの中を通過した感情が自分の中にも通過しているしるしでもある。それは自分だけの経験ではない。最終的には、自分の中で統合されていく。時にはじっと身をひそめ、耳をすますこと必要もある。
・性の本質は【対極(両極性)の合一】。性をあくまでも体レベルの問題に限定する限り、時間の支配から抜けられない。だから性の快楽は一過性のもの。その幻影を時間とともに追い続ける羽目になる。通常世界でもネット世界でも性の問題が氾濫するのはそのため。
・時間の支配から抜けるには【対極(両極性)の合一】を精神や魂のレベルで行う必要がある。そこには時計で測るような時間の概念はない。空間の概念もない。それは永遠や無限に通じる。それは神話的で宇宙的な場所でもある。
・体レベルでの性行為は【対極(両極性)の合一】の一つの側面でしかない。ただ、ほとんどの人が【対極(両極性)の合一】の象徴性を学ぶきっかけとなるのが肉体的な性レベルでもある。注意を向けると同時に、そこにとらわれてはいけない。
・だからこそ、人間の関心事、悩み、葛藤・・・の中心テーマとして、性やパートナーシップが常に問題になる。人間が原理的に抱えている問題が【対極(両極性)の合一】(肉体、精神、魂、いづれのレベルにおいても)だからだと思う。
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特にこの春樹さんの作品で感じた事は、「ノルウェイの森」に連続した世界観であるということ。
⇒映画「ノルウェイの森」(2011-02-26)
この現実世界に対する表現もあって驚いた。
金儲けや精神支配だけが目的のセミナー(コーチングの一部?)も「都合の良い思考システムの催眠的注入」との表現があったり、地下鉄サリン事件のことも間接的に触れていた。時にこの現実世界とのリンクもあり、春樹さんの作風としての小説世界そのものとしても変化だと思った。
マジックリアリズムとリアリズムとを自然な形でスムージングジュースとして飲んでいる感じ。ミントとゴーヤの香りが混ざるような独自の味。
春樹作品を強く拒否する人がいるのも分かる気がする。
春樹さんの文章は人間の深いところを揺さぶるし、その深い場所は日常レベルとは違う深い場所だから、通常の規範、常識、世間、・・などを軸に物事を考える人は、その寄る辺としての支えの軸を深い場所から大きく揺さぶられる感じがするのかもしれない。
人間に奇妙な身体症状として外部化してくる事柄は、こころや魂の深い領域で受け入れなかったものが、自分たちの存在を主張するため、メッセージとしてシグナルとして表世界に現れているもの。そのことに気付くと人間は生きやすいのだけど(自分自身と調和的に生きる事が出来る)、そこを見ないふりをしていると辛く苦しいものだ(自分自身と調和的に生きる事ができない)。
眠っている時に上映される「夢」は、顕在意識のブロックが外れるすきを見て、自分自身が自分自身に送ってくるメッセージやシグナル。春樹作品は、個人的な「夢」を、本として活字として見せられている気がするから、拒否反応を示す人がいるのだろう。その拒否反応を示す主体は何?脳?体?心?魂?誰?
「悪夢」という言葉がある。ただ、この自然界や宇宙界に「善」や「悪」という色分けはそもそも存在しない。宇宙は人間とは無関係に動いている。人間の意識活動のプリズム光のように価値観は現れる。すべては中性でありニュートラルである。善や悪は、個人的な意識活動や、集合的な意識活動が引き起こす感情の色どり。この世には色は無限にある。 だから、自分の中で適切に受け取られれば「悪夢」は存在しない。「善夢(ゼンム)」が存在しないように。「夢」はあくまでも、原理的に「夢」であり続ける。そんな「夢」を通常の意識レベルで読めるように料理し配達しているのが、村上春樹という存在であり、読み手が無意識に求めているものなのだと思う。
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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」より
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自分自身の価値を追求することは、単位を持たない物質を計量するのに似ていた。
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「それが存在し、存続すること自体がひとつの目的だった。」
「たぶん」
沙羅は目を堅く細めて行った。
「宇宙と同じように」
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「つまり一種の架空の存在として。肉体を固定しない観念的な存在として。」
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「限定された目的は人生を簡潔にする」
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→春樹さんの魅力は、登場人物の対話にある。
登場人物の対話を、僕らが心や魂の奥底で無意識に行っている対話と重ね合わせて読むと、春樹さんの作品世界の深さが感じられる。
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まわりは見渡す限り、荒ぶれた岩だらけの土地だった。
一滴の水もなく、一片の草も生えていない。
色もなく、光らしい光もない。
太陽もなければ、月も星もない。おそらく方向もない。
得体の知れない薄暮と底のない闇が、一定の時間をおいて入れ替わるだけだ。
意識あるものにとって究極の辺境だ。
しかし同時にそこは豊饒な場所でもあった。
薄暮の時刻には、刃物のようにとがった嘴をもった鳥たちがやってきて、彼の肉を容赦なくえぐり取っていった。
しかし闇が地表を覆い、鳥たちがどこかに去るとその場所は、彼の肉体に生じた空白を、無音のうちに代替物で満たしていった。
新たにもたらされた代替物が何であれ、つくるはその内容を理解することも出来なければ、容認も否認もできなかった。
それらは影の群れとして彼の身体に留まり、影の卵をたっぷりうみつけて行った。
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いずれにせよ、そのようにして彼は、「たざき・つくる」という一個の人格になった。
それ以前の彼は無であり、名前を持たぬ未明の混沌に過ぎなかった。
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人間の精神の中では、生や死が不断に繰り返されている。
何かが死んで何かが生まれ、何かが生まれるときに何かが死んでいる。
心の奥底では、さまざまなものが輪廻しながら、人間の成長を支えている。
生や死という現象は、常識や決まり切った考えではなく、先入観を無くしてそれぞれが取り組む必要がある。
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「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体と言う限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです。」
「ずいぶんむずかしそうだね」
灰田は首をふった。
「いいえ、考えようによっては、とくにむずかしいことではありません。多くの人が時に応じて知らず知らずでそれを行い、そうすることでなんとか正気を保っています。ただ、自分がそうしていることに本人が気づかないだけです。」
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「どんなことにも必ず枠というものがあります。思考についても同じです。枠をいちいち恐れる事はないけど、枠を壊すことを恐れてもならない。人が自由になるためにはそれが何よりも大事になります。枠に対する敬意と憎悪。人生における重要なものごとというのは常に二義的なものです。僕に言えるのはそれくらいです。」
「ひとつ質問したい事があるんだけど」とつくるは言った。
「どんなことでしょう」
「様々な宗教において預言者は多くの場合、深い恍惚の中で絶対者からのメッセージを受け取る」
「そのとおりです」
「それは自由意志を超越したところで行われる事だね?あくまで受動的に」
「そのとおりです」
「そしてそのメッセージは預言者個人の枠を超えて、広く普遍的に機能することになる」
「そのとおりです」
「そこには背反性もなければ二義性もない」
灰田は黙って肯いた。
「ぼくにはよくわらないんだ。だとすれば人間の自由意志というのは、いったいどれほどの価値を持つのだろう」
「素晴らしい質問です」と灰田は言った。そして静かにほほ笑んだ。それは猫が日向で眠りながら浮かべる微笑みだった。
「ぼくはまだその質問に答えられません」
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「どんなに穏やかに整合的に見える人生にも、どこかで必ず大きな破たんの時期があるようです。狂うための期間、と言っていいかもしれません。人間にはきっとそういう節目みたいなものが必要なのでしょう。」
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「いづれにせよ、僕らはここで仮説について話しています。その話を追求していくには、もっとはっきりした具体例が必要になります。橋に橋げたが必要なように。仮説というものは先に行けば行くほどもろくなり、出される結論はあてにならないものになっていきます。」
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この登場人物の対話には、深く考えさせられた。宗教や信仰の本質を巡る対話が自然にすべり込ませている。思わずうなる。
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ただの虫歯一本で、肩こり一つで、すべての美しいヴィジョンと響きが、ひゅっと無に帰してしまうんだ。人の肉体はかくのごとく脆いものだ。
そいつはおそろしく複雑なシステムとして成り立っているし、些細なことでしばし損なわれる。
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「(死のトークンのようなものを受け取り)死を引き受けることに合意した時点で、君は普通でない資質を手に入れることになる。特別な能力と言ってもいい。
人々の発するそれぞれの色を読み取れるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にあるのは、君が君の知覚そのものを拡大できるという事だ。
君はオルダス・ハクスレーが言うところの『知覚の扉』を押し日たくことになる。
そして君の知覚は混じりけのない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯瞰することになる。」
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「・・・いったんそういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景には論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体と言う枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚でもある。」
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春樹さんの肉体や精神を見つめる視線は深い。
この辺りは、「裏の医学」が到達している世界に近接している。自分の研究対象との類似。
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「実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。そこには中間ってものはない。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ」
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「あなたはナイーブな傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ。」
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→春樹さんの作品は、忘れられない台詞が多い。頭の中でリフレインする。
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要するに企業戦士を養成するための即席お手軽洗脳コース。教典のかわりにマニュアルブックを使用し、悟りや楽園のかわりに出世と高い年収を約束する。
プラグマティズムの時代の新宗教ね。しかし宗教のように超越的要素はなく、すべては具体的に理論化、数値化されている。とてもクリーンで、わかりやすい。それでポジティブに鼓舞される人も少なからずいる。
しかしそれが基本的に、都合の良い思考システムの催眠的注入である事に変わりない。
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「順調かどうかはともかく、少なくとも着実に前には進んでいる。
言いかえれば、後戻りはできなくなっている。」
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それは形を持たない、透き通った悲しみだった。彼自身の悲しみでありながら、手の届かない遠い場所にある悲しみだった。
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極力、核心部分に迫る台詞は引用しないように気をつけました。春樹世界の片鱗は感じられるかと。
読後、「ノルウェイの森」を思い出しました。
⇒映画「ノルウェイの森」(2011-02-26)
春樹さん作品は、どれも全部読んでほしい。「よくわかない」と思いながらも読んでほしい。
寝ている時に夢を見ても「よくわからない」と思っている人は特に読んでほしい。
夢は誰もが強制的に見るけれど、小説はあくまでも自発的に自主的に見るもの。そこが少し違う。
性を肉体的レベルだけに限定しない方がいい。そうなると、春樹作品は、自分の内部にある影(性や暴力や怒り)を投影する器として機能するだけで終わってしまう。
春樹さんは性を【両極性の合一】の象徴表現と重ねて書いている。
大切な事は外にはない。中にある。
肉体レベルの性は、あくまでも気づきや意識の転換のきっかけにすぎない。それは天国から地獄にまで通じている。
春樹さんはそのことを丁寧に書いている。人間に普遍的な事柄を書いている。夢を読み解く作業は、読み手に託されている。
春樹さんの作品を読んでいると、魂の深い場所に何かが通過し、何かが組み替えられ、癒され、「風」が通過した感覚が深く残る。風の歌が聴こえる。
春樹さんの作品には聖婚(Hierosgamos)のメタファーに満ちている、と思う。
自分の内なる女性性(アニマ)と男性性(アニムス)との結婚。それは魂の深い場所だけで起こる事。
ユングは、人間は魂そのものを認識することは絶対に出来ないと喝破した。その代わり、男性は魂そのものを女性のイメージ(アニマ)として認識することがあり、女性は魂そのものを男性のイメージ(アニムス)として認識することがあると言った。
日常レベルでの「性」ではなく「聖」の世界。意識の切り替えが必要。神話的時間の流れる場所。
そういう結合や分離、融合や溶解を繰り返しながら、人間は成長していくのだと思う。
日常意識でも夢見の意識でも、自分の体も心も魂は自分自身をよりよく成長させるために、常に手助けをしてくれているのを感じる事ができる。
そういう素晴らしい肉体と精神と心と魂を持って、僕らはこの世に生まれてきている。あとは自由自在に使いこなし、自由自在に乗りこなす術を、少しずつ少しずつ、失敗と反省を繰り返しながら謙虚に学んでいくだけだ。
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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
「悪いこびとたちにつかまらないように」
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おびき寄せられてしまいました~(笑)
長いタイトルや、プロモーションから、
もう、はまっているのは分かっているのに、
発売日朝一から買って読んでしまいました!
春樹ワールド全開って感じで
今までの読者には、「あるある!」って
思う所が多くて、
でも、春樹初心者にも、入りやすい
(分量的にも…『1Q84』は大変でしょう!)
いい作品なんだよなー、なんだかんだ言っても。
ぼく的にははじめてリアルタイムで読んだのが
大学入ってちょっとしての『スプートニクの恋人』で、ちょっと、その時の感じに似てた。
村上春樹って、15年周期くらいで大きな波つくって、又足並み揃えて準備して、大きな挑戦して…って感じで、『1Q84』は相当出し切ったかんじがしたけど、本当にペースを崩すことなく次に進む感じ、
もう親のような年の人なのに、未だにフレッシュ!って感じる…尊敬と同時に、自分にカツ入れてもらう気がする。
…追伸、ちなんだ朝カルの講座で内田樹の話を聞きに行ったけど、こちらはさっぱりで、なんかやっつけ感のある仕事で、生・内田初めてだっただけに残念!いい読者だっただけに…。
常に全力でいたいと思いました。オソマツ。
久しぶりの村上作品だったため、嬉しいはずなのに読み始めるまでに1ヶ月かかり、読み始めてから10ページくらいで止まってしまって更に1ヶ月かかりました。でも、序盤を過ぎたころから一気にスイッチが入って最後まで一気読みです。もしかしたら、最近、熟慮された作品としての日本語をしっかり読んでいないからかもしれないと思ったりしました。
「国境の南、太陽の西」や「スプートニクの恋人」のような読後に似ているような感じもしたけど、登場人物のつなげ方や物語へのコミットの仕方がかなり違うよね。
登場人物の色にも興味あるし、色を持たないメインの二人の登場人物の意味についても、もう一回読んで考えたいです。
そうそう。結局読んじゃうし、結局面白いんだよねー。
ネット時代になって、なんかよくわからんけど春樹作品をたたく人も多く出てきた。
自分もShinくんと同じで少し自宅で熟成させてからよんだ。
なんとなく自分が小説モードに切り替わるのを待ってる感じで。
自分も、初心者に入りやすい感じだと思った。
そういう意味で、ノルウェイの森、に近い。やや大衆小説を意識したのかな、と思った。
ほんとはもっと実験的な作品も描きたいんだろうけどね。カラマーゾフのような圧倒的な勢いで読ませちゃうような小説とかをね。
自分ははじめてリアルタイムで読んだのが「1Q84」っていう、実は春樹ファンとしてはかなり新しい部類に入るわけですが笑、その後は小澤さんとの対談とか、再販とか、新作は出てなかったから、すごく楽しみにしてたし。NHKのあまちゃんを毎日楽しみにしてるわくわく感と近い。
『1Q84』も、何度も読み直さないと、一読では表面的なところしかわからないんだろうなぁ、と思ってる。あの人はただものじゃないから、手練れとして何度も楽しめる趣向を(無意識的にも)凝らしてそうだし。
最新号の雑誌「考える人」にも河合先生の会でのインタビューが載ってた。あと、NHKラジオで英語で読む村上春樹 2013年5-8月号やってるねー。本は買ったけどラジオは聞いてない・・・・
P.S.
内田樹さん。まあ売れっ子だし、だんだんやっつけ仕事になっちゃうんだろうね。そして、適当なのを「それが肩が抜けていいんだよ!」って妙に自己肯定なんてされると、微妙だなーと思う。笑 茂木さんが、坂口恭平君と対談したとき、酒飲んで出てきて、まともに対談できなかったけど、それを自己肯定してたのも残念だったなぁ。 常に最高のパフォーマンスしたいものですね。ヒトのふり見てわがふり直せ、って感じで、そういう悪い例を見ると身がひきしまります・・・。
>>>Shinくん
Londonでもそうやって普通に日本語の本読めるんだねー。Amazonってすごいなぁ。
自分も同様に熟成させたので、その気持ちよく分かる。。
最近哲学、宗教、心理学、医療の本を多く固め読みしてるから、ちょっと自分の中でモード変えないといけないんだよね。
マンガとかも、漫画スイッチ入りだすと、一時活字読めなくなっちゃうし。笑
ただ、前も言ったけれど自分を活字モードに切り替えてくれたのはShinくんなんだよねー。大学生までは漫画モードから切り替えることができなかったもので。。。えらく感謝しとります。
「国境の南、太陽の西」・・・衝撃の問題作だよねー。これはすごい話だった。
「スプートニクの恋人」・・・メタファーとか小説の疾走感はこの本がいちばん好き。
登場人物の色も、いろいろ追求すると面白そうだよねー。
春樹さんはただものじゃないから、その辺は知識とかじゃなくて、相当深い場所で直感的に感じ取ってるんだろうし。。
個人的にはシュタイナーの色彩論が面白いですよ。これはゲーテの流れです。ニュートンのような客観的な色世界と違う、主観的な色世界の話で。もしご興味あれば。 人間のチャクラ(エネルギーセンター)も虹の七色で象徴されていたり、人体と色とは根源で響きあうものがありそうです。
興味あり。稲葉くんみたいな科学の知識や臨床の経験と合わせて他分野が紹介されることに偉大な意味を感じます。
本はね、村上さんのは友達に出で運んでもらったんだよ。最近、やっぱり紙の本に回帰しています。そして、遠くない将来に紙の本をいやってくらい置ける家に定住したいものです。。。やっぱり本や音楽を置いて、家族や来客とああでもないこうでもないと言える環境がいいな。
そうそう。結局いろんなものはつながってるんだよねー。
認識の色めがねをつけないよう、その本質を見極めるよう努力したいですね。
紙の本、いいよねー。ほんとはみんなで場所借りてライブラリーつくりたいよねぇ。矢作先生の本とかもものすんごくたくさんあるし、あれをどうするんだろう!っていつも思う。自分が受け取る事になりそうだし。。笑
いづれにしても、紙の本がはなつアウラはいいものですよー。自分の家に遊びに来ると、みんな本のオーラに包まれて、みんな和んでます。笑