日常

杉本博司 新作能「巣鴨塚」

2015-11-11 23:11:11 | 芸術
今日は11.11という対称性を内に潜む象徴的な日だった。
こういう象徴的な日に観劇するものは、自分の潜在意識と何か不思議な符合が起きている。
意識で気付くか気付かないかとには関係なく。

池袋の<あうるすぽっと>で、現代美術作家・杉本博司さんの新作能「巣鴨塚」を見た。
深い感動を受けた・・。
まだ余韻が残る。

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『春の便り~能「巣鴨塚」より~』
2015年11月11日(水曜)
○作・構成・演出・出演:杉本博司
○作調:亀井広忠(能楽師大鼓方葛野流)
○出演:
余 貴美子
大島輝久(能楽師シテ方喜多流)
栗林祐輔(能楽師笛方森田流)
田邊恭資(能楽師小鼓方大倉流)
亀井洋佑(能楽師大鼓方葛野流)
○主催:公益財団法人小田原文化財団
○企画制作:公益財団法人小田原文化財団
○共催:あうるすぽっと(公益財団法人としま未来文化財団)
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1947年に板垣征四郎が巣鴨プリズンで書いた漢詩を下敷きにしたお能の現代表現。

板垣征四郎(1885年-1948年)は、石原莞爾とともに満州事変を決行した軍人。戦略の石原莞爾、実行の板垣征四郎と言われていたらしい。
戦後は東京裁判で軍人の代表として処刑された。

彼の辞世の句としての漢詩の朗読が主旋律として行われた。
漢詩という彼の記憶は、声が付与されることで現代によみがえる。
杉本博司さんと余貴美子さんの朗読は素晴らしかった。
その合間に入るお能も素晴らしすぎて声にならないほどの感銘を受けた。


声に出して詠むという行為は、いのちを付与する神聖な儀式として行われる。
板垣征四郎の漢詩を読むと、いかに清濁あわせ飲んで、戦争をせざるを得なかった立場だったかがよく分かる。
平和のために戦わないといけない大いなる矛盾、その受容への葛藤。

表面の行為だけではなく、裏面や深層に潜む思いを適切に受け取ることは、医療現場でも重要なことだと日々思う。

漢詩には、彼の切実で正直な思いが封印されていた。
そのことが杉元さんの思いに触れて、時を超えてよみがえっていた。



鎮魂。
死者の魂を鎮める、と言う事。

言うのは容易いが、行うのは難しい。

日本は、お能という形而上学的なスタイルをもって、その実践的な試みを行ってきた。
死者や霊の世界を、<恐れ>や<不安>を誘発させるようなスタイルとして悪用するのではない。
現代はこういう形で死や霊の世界を語る人たちがいて、自分は悲しく思っている。 そういう人たちは、彼らの内なる<恐れ>や<不安>から自由になれていないから、そうした手段として無意識に使ってしまうのだろう。


能楽の世界では、あくまでも美や芸術の世界へと、その悲しみや葛藤を昇華させていく。
そして肉体的な身体的な表現として着地させていく。

そういう前衛的な試みが日本の深層に脈々と流れていて、そのバトンが静かに手渡され続けられていることを、誇りに思う。

自分も医療の世界で根源的に行っていることは、死者の鎮魂でもあるという自負があるから。
それは同時にいのちへの感謝でもあり、いのちへの賛歌でもあるから。



杉本博司さんは、戦争の悲しみや死者の悲しみ・・・、あらゆる世代の戦争が生み出したあらゆる浮かばれない残滓を、能のスタイルと現代芸術(朗読や映像や空間・舞台作りとして)とを融合させることで、戦後世代の戦争の総括や鎮魂を試みているのだと感じた。
次の時代へバトンを渡そうとしている表現でもあり、何かの区切りやケジメを創ろうしているようだった。



闇の中を切り裂くように聞こえる、鼓の音、笛の音、謡いの響き、そして幽玄の舞い。

心の浅いところを複雑に揺らしながら、こころの深いところまでも、その波紋は確実に届いた。
自分の心の底を覗いてみたら、普段は動かされない場所が揺り動かされたのを感じた。


11.11という象徴的な日に、現代美術と伝統芸能とがあわさった鎮魂を共有できたことを嬉しく思う。
鎮魂は舞台だけで行われているのではなく、客席にいる人も巻き込まれ、場全体として行われている。


香川の仏生山温泉(→<2015-11-09>に記載)で<仏生山まちぐるみ旅館 縁側の客室>に宿泊させて頂いた。そこには杉本博司さんの『苔のむすまで』という本が置いてあり、思わず読み入った。読み返すために写真に撮っていたのは偶然ではないだろう。自宅に戻り本も購入した。

人生はジグソーパズルのようなもので、ピースがバラバラだと人生そのものは混沌としているようだが、ピースが適切な位置に配置されると、あらゆる存在の背後には、美と愛と調和とが存在していることに、気付く。

この記事も、なんとかPM11:11にUpすることができた。


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(プレスリリースより)
「春の便り」によせて 杉本博司
朗読劇『春の便り』は、能『巣鴨塚』のプロットとして書かれた。

言うまでもない事だが、能という演劇形式の最大の特徴は、登場人物の霊が時間を超越して現れ得ることである。
私はこの手法を使って、先の大戦の記憶を、能の形式に置き換えておきたいと思った。
我が国では、歴史は能という形式となって、はじめて語り継がれる歴史となる。

今、あの敗戦から七十年という歳月が流れた。
その時の流れは、壇ノ浦の平家滅亡から時を経て、鎌倉期に平曲として語られ始めた、その時の流れとほぼ一致する。
あまりにも生々しい歴史は、時間の濾過を通してのみ、物語へと昇華するのだ。
私は今、その濾過の時が到来したのだと感じる。

「春の便り」とは「ハルノート」を指す。
私は A 級戦犯として巣鴨に刑死した板垣征四郎の遺言を、謡曲として謡ってみたいと思った。
その長文の遺言は漢詩として書かれている。
板垣の霊は、焦土と化した祖国の獄中で、この国に春の便りが二度と届かないことを乞い願う。
その板垣の願い通り、この国は永遠の冬に閉塞された国として、今、生息している。

盲目の僧の琵琶の音が、どこからともなく聞こえてくるようだ。





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杉本博司『苔のむすまで』(新潮社:2005)より

能 時間の様式
Q:あなたにとって能とは何ですか。
A:時間の流動化です。
Q:といいますと。
A:時間は過去から未来への一方通行ですが、能は時間から自由なのです。
Q:タイムマシンですね。
A:夢がその乗り物として機能します。夢幻能と言われています。