(トップ写真は、DMより「境界の守護獣」(30号))
今日は朝も昼も面白い事で盛りだくさんだった。
まず朝のことから。
小松美羽さんの絵を銀座三越に見に行く。
とても素晴らしかった。
絵が生きていた。
お忙しい中、小松さんには十分な時間をとってお話しできて、とても嬉しかった。橘さん、小松さん、妹さん、高橋さん、ありがとうございました。
→○小松美羽 Miwa Komatsu | オフィシャルサイト
→○小松美羽展2016.3.16―22 銀座三越7階
■
小松美羽さんの絵はかなり力がある。
それはまるで呪術のように高密度な形で濃縮されていた。
本来、言語も絵画もそういうものとして人類史の中で生まれてきていると思うのだが、通常の生活ではそのことが忘れらている。そういうことを思い出させてくれたのだった。
絵と対峙し、絵のイメージを追体験していると、そこに彼女の体験が伴っていることがわかる。
脳内の空想ではなく、直接的なイメージ体験を絵として定着させているから、質の体験として、見る行為自体が体験として、こちらの身体に迫ってくる。
小松さんの絵画には異形の生き物が多数出てくる。
みなさんは、昆虫をじっくり見たことがあるだろうか。
カマキリ、セミ、トンボ・・・・じっくり見ていると、周囲の生き物は、人類と比べて極めて異形の生き物である。
子供だったころ、初めて見た時は、その別次元の異形にきっと心臓をつかまれるように驚いたことだろう。
ただ、日常の中で慣れてくると、何も感じなくなるのは不思議なことだ。
小松さんの絵は、そんな子供の時の感受性を、マジリっ気のない驚きと発見に満ちた日々を思い出させてくれるものだった。
■
わたしたちは日々寝ているときに夢を見ている。
それはイメージ体験としかいいようがないもの。
深い意識の層で起こるイメージ体験は、日常生活での外的な現実では、その対応物が存在しない。
外的な現実世界に対応物がないものは、夢の中でイメージ体験することはできても、絵として形として構造化することは極めて困難となる。
例えば、水星へ、地球上で自分一人だけが行って帰ってきて報告することを考えてみる。
そこで体験した世界が、この地球上でまったく類似のものがない場合、そこで見て聴いて感じた世界を表現して人に伝えることは極めて難しい。
わたしたちは、外的現実に一切の類似物がないものをありのまま知覚することはきわめて難しいのだ。
そのことは、臨死体験をしたひとたちの体験を聞いているときも感じる。
臨死体験では死と生のあわいの世界を主観的に体験して生還してくるのだが、類似物がない世界を表現することは難しい。言葉でも、絵でも。
臨死体験の話を聞いていると、「光の体験」が必ずと言って出現する。光は、イメージ体験の最深部だから、イメージ体験を光としか表現できないのだろう。見たことがない世界を、形として認識することはきわめて難しい。それは、まさに芸術家の課題となる。
■
小松さんは、彼女の深い意識の層で眺めた風景を、絵として的確に記述していると感じた。
空想や妄想ではなく。そこに確固とした体験が伴っているのを、観ている自分は皮膚体験として感じたのだった。
深いイメージ体験は夢のようなものだ。
わたしたちは、三越7階という日常空間の中で、小松さんの夢の世界へ足を踏み入れることになる。
ある人は見ても絵を理解できない(脳が合理化できない)が、実際は日々の夢の中で体験している世界に極めて近いため、体はなぜか親近感を感じている。だから、多くの人は吸引されるように絵を見にくるのだ。頭はわからなくても、体はわかっている。
それは、伝統芸能である能楽の舞台において、能楽師たちが演じる夢の世界に入り、鎮魂を共にすることとも似ている。頭はわからなくても、体はわかっている。
外的現実に対応物がない場合、絵画は神話のような様相を呈してくることになる。それは、自分も時々垣間見ている世界なので、とてもよくわかるのだ。
ただ、その世界を的確に表現するには技術がいる。
だからこそ、芸術はアートであり、アートは技術でもあるのだ。
芸術(Art)は技術(Art)を伴う。
だから、画家は日々成長している。
■
小松さんと話しているとき、そういう幅広い意識の状態で日々を過ごしている人特有の波動を感じた。存在から。
現実を夢のように過ごし、夢を現実のように過ごす。
それは、心理療法の中で相手の夢を聞いていくときに、聞き手側が必要とされる態度でもある。
相手の夢を現実のように聞いて、相手の現実を夢のように聞く。
夢の世界がこの現実を補いあっているように、私とあなたは夢と現実とを補い合う。
■
この高度に文明化された現実世界は、生きているだけで、常に何かしらの緊張状態を必要とされる。
時間に追い立てられ、規則やルールや常識や法に縛られ続けている。
夢は、人類にとって緊張から解放の時として平等に与えられた時の層であり、私たちの抑えられたイメージは水を得た魚のように流動的に動き出すことを許される。
そこは神話世界に似ていて、人類以外の生命世界が満ち満ちている。いのちの世界でもある。
眠っても眠り切れない現代人は、勇気ある画家の絵を見ることで、起きながら夢を見ることができる。
多くの画家や芸術家こそが、この不安定で不自然な文明社会の絶妙なバランスをとっているのだ。
今後、小松さんには、色々な文脈に乗せていこうとする動きがあるだろう。一見すると、どういう文脈にも、定型的なキャッチフレーズにもはまりそうに見えるから。
人々は、そうして合理化しないと、不安になるものなのだ。
そんな社会の合理化に巻き込まれないよう、闘牛士のようにヒラリヒラリとうまくかわしながら、別のレイヤーで創作活動を続けてほしい。
妹さんの存在は、お姉さんを尊敬しながら、かつ守っているように思った。
まるで私たちが純粋な魂を守るように。
この多様な世界が何か均一の価値観で染められようとするとき、芸術家こそがこの世界のバランスをとり続けているのだから。
「素」という漢字は、糸たばを括り両手で強くねじている形で、糸を染色で染めようとするとき、「素」の漢字の下半分の「糸」は別の色に染まるのだが、手にもちねじっている部分だけは別の色に染まらず純白のままになる。その染まらない部分を「素」というらしい。
「素」(「素直」)という言葉は、色に染まる部分と染まらない部分とを共存させていることを指す。
そうした「素」のままで、絵を描き続けてほしい。
そういう後姿は、きっと多くの人に勇気を与え続けるだろう。
・・・・・・・
小松美羽さんの展示は銀座三越で3/16-3/22まで。お時間ある方は是非見に行ってほしいです。
キャンパスの中で絵が動いてたから、おそらく今後どんどん変化していくと思います。
絵は、生きているのです。
今日は朝も昼も面白い事で盛りだくさんだった。
まず朝のことから。
小松美羽さんの絵を銀座三越に見に行く。
とても素晴らしかった。
絵が生きていた。
お忙しい中、小松さんには十分な時間をとってお話しできて、とても嬉しかった。橘さん、小松さん、妹さん、高橋さん、ありがとうございました。
→○小松美羽 Miwa Komatsu | オフィシャルサイト
→○小松美羽展2016.3.16―22 銀座三越7階
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小松美羽さんの絵はかなり力がある。
それはまるで呪術のように高密度な形で濃縮されていた。
本来、言語も絵画もそういうものとして人類史の中で生まれてきていると思うのだが、通常の生活ではそのことが忘れらている。そういうことを思い出させてくれたのだった。
絵と対峙し、絵のイメージを追体験していると、そこに彼女の体験が伴っていることがわかる。
脳内の空想ではなく、直接的なイメージ体験を絵として定着させているから、質の体験として、見る行為自体が体験として、こちらの身体に迫ってくる。
小松さんの絵画には異形の生き物が多数出てくる。
みなさんは、昆虫をじっくり見たことがあるだろうか。
カマキリ、セミ、トンボ・・・・じっくり見ていると、周囲の生き物は、人類と比べて極めて異形の生き物である。
子供だったころ、初めて見た時は、その別次元の異形にきっと心臓をつかまれるように驚いたことだろう。
ただ、日常の中で慣れてくると、何も感じなくなるのは不思議なことだ。
小松さんの絵は、そんな子供の時の感受性を、マジリっ気のない驚きと発見に満ちた日々を思い出させてくれるものだった。
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わたしたちは日々寝ているときに夢を見ている。
それはイメージ体験としかいいようがないもの。
深い意識の層で起こるイメージ体験は、日常生活での外的な現実では、その対応物が存在しない。
外的な現実世界に対応物がないものは、夢の中でイメージ体験することはできても、絵として形として構造化することは極めて困難となる。
例えば、水星へ、地球上で自分一人だけが行って帰ってきて報告することを考えてみる。
そこで体験した世界が、この地球上でまったく類似のものがない場合、そこで見て聴いて感じた世界を表現して人に伝えることは極めて難しい。
わたしたちは、外的現実に一切の類似物がないものをありのまま知覚することはきわめて難しいのだ。
そのことは、臨死体験をしたひとたちの体験を聞いているときも感じる。
臨死体験では死と生のあわいの世界を主観的に体験して生還してくるのだが、類似物がない世界を表現することは難しい。言葉でも、絵でも。
臨死体験の話を聞いていると、「光の体験」が必ずと言って出現する。光は、イメージ体験の最深部だから、イメージ体験を光としか表現できないのだろう。見たことがない世界を、形として認識することはきわめて難しい。それは、まさに芸術家の課題となる。
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小松さんは、彼女の深い意識の層で眺めた風景を、絵として的確に記述していると感じた。
空想や妄想ではなく。そこに確固とした体験が伴っているのを、観ている自分は皮膚体験として感じたのだった。
深いイメージ体験は夢のようなものだ。
わたしたちは、三越7階という日常空間の中で、小松さんの夢の世界へ足を踏み入れることになる。
ある人は見ても絵を理解できない(脳が合理化できない)が、実際は日々の夢の中で体験している世界に極めて近いため、体はなぜか親近感を感じている。だから、多くの人は吸引されるように絵を見にくるのだ。頭はわからなくても、体はわかっている。
それは、伝統芸能である能楽の舞台において、能楽師たちが演じる夢の世界に入り、鎮魂を共にすることとも似ている。頭はわからなくても、体はわかっている。
外的現実に対応物がない場合、絵画は神話のような様相を呈してくることになる。それは、自分も時々垣間見ている世界なので、とてもよくわかるのだ。
ただ、その世界を的確に表現するには技術がいる。
だからこそ、芸術はアートであり、アートは技術でもあるのだ。
芸術(Art)は技術(Art)を伴う。
だから、画家は日々成長している。
■
小松さんと話しているとき、そういう幅広い意識の状態で日々を過ごしている人特有の波動を感じた。存在から。
現実を夢のように過ごし、夢を現実のように過ごす。
それは、心理療法の中で相手の夢を聞いていくときに、聞き手側が必要とされる態度でもある。
相手の夢を現実のように聞いて、相手の現実を夢のように聞く。
夢の世界がこの現実を補いあっているように、私とあなたは夢と現実とを補い合う。
■
この高度に文明化された現実世界は、生きているだけで、常に何かしらの緊張状態を必要とされる。
時間に追い立てられ、規則やルールや常識や法に縛られ続けている。
夢は、人類にとって緊張から解放の時として平等に与えられた時の層であり、私たちの抑えられたイメージは水を得た魚のように流動的に動き出すことを許される。
そこは神話世界に似ていて、人類以外の生命世界が満ち満ちている。いのちの世界でもある。
眠っても眠り切れない現代人は、勇気ある画家の絵を見ることで、起きながら夢を見ることができる。
多くの画家や芸術家こそが、この不安定で不自然な文明社会の絶妙なバランスをとっているのだ。
今後、小松さんには、色々な文脈に乗せていこうとする動きがあるだろう。一見すると、どういう文脈にも、定型的なキャッチフレーズにもはまりそうに見えるから。
人々は、そうして合理化しないと、不安になるものなのだ。
そんな社会の合理化に巻き込まれないよう、闘牛士のようにヒラリヒラリとうまくかわしながら、別のレイヤーで創作活動を続けてほしい。
妹さんの存在は、お姉さんを尊敬しながら、かつ守っているように思った。
まるで私たちが純粋な魂を守るように。
この多様な世界が何か均一の価値観で染められようとするとき、芸術家こそがこの世界のバランスをとり続けているのだから。
「素」という漢字は、糸たばを括り両手で強くねじている形で、糸を染色で染めようとするとき、「素」の漢字の下半分の「糸」は別の色に染まるのだが、手にもちねじっている部分だけは別の色に染まらず純白のままになる。その染まらない部分を「素」というらしい。
「素」(「素直」)という言葉は、色に染まる部分と染まらない部分とを共存させていることを指す。
そうした「素」のままで、絵を描き続けてほしい。
そういう後姿は、きっと多くの人に勇気を与え続けるだろう。
・・・・・・・
小松美羽さんの展示は銀座三越で3/16-3/22まで。お時間ある方は是非見に行ってほしいです。
キャンパスの中で絵が動いてたから、おそらく今後どんどん変化していくと思います。
絵は、生きているのです。