羽田に着いたものの、機体に鳥が衝突したらしく、時間がかかり、
結局予約していた東北新幹線に乗り遅れ、一番近い時間の新幹線の自由席に座る事に。
(お~ぉ 二階建ての車体にビックリ、ラッキー
)
早朝からの移動だったので、座席に着くとちょっと空腹に気が付きました。
(朝食付きのホテルだったけれども、食べる暇もなく、福岡空港に直行)
社内販売のワゴン車が来てくれたので、駅弁を購入。
(此処で食べておかなくては、スケジュールの都合上、食べる暇がありません)
お腹も空きすぎると食欲も無いのだけれど、とりあえずこんな感じのお弁当を購入。
これから先の状況を思うと、何だか気が重く、話も続かず、かと言って眠る事もできず、
そうこうしているうちに、福島駅に到着。
予定時間が下がったにも関わらず、コープ福島の常務理事、組合員理事が
お迎えに来て下さっていました。
東北イコール寒いは、全くの思い違いで、九州よりも暑い気候にビックリです。
私達は、常務理事、全域理事、組合員理事の三人の参加で、計五人で、
車に乗り込み被災地区に行く事になりました。
ほぼ日刊 イトイ新聞 (http://www.1101.com/)
<ほぼ日 アンコール をクリックすると出ます。>
乗務員 永田泰大 さんのアイコンをクリックされると、被災当時の
写真や、上野さんのお話を見る事が出来ます。
福島大学特任教授のOさんの御助力に依り、上野さんとの対話も実現しました。
こんな所まで津波が来るなんて、誰も夢にも思わなかった事が現実に起きて、
上野さんの家のみが、奇跡的に残ったそうです。
もっとも残ったとは言え、痛み方は半端ではなく、手を入れながらやっと、二部屋を確保
したもので、家とは言いがたいものでした。
未だ下のお子さんの遺体が見つからず、自力で掘り起こし作業をしていました。
まず最初に、Oさんが持参したお花を遺影にささげ、部屋の中に案内されました。
彼は両親と、二人の子供さんを亡くし、失意の中で復興に頑張っている方で
あの頃は 鬼でした の一言に悔しさがにじみ出て、なんとも重苦しく
辛い時間が過ぎて行きました。
私もお断りして、写真撮らせていただきましたが、何だかアップする気になりません。
福島の子供達をディズニーランドに連れて行きたい
その思いを目標に、頑張ると言う彼の意志を表す、復興Tシャツを購入させて
頂きました。
わずか20分足らずの滞在でしたが、思う事が沢山有り過ぎて、つらかったです。
その後、浜通り、海岸線に行き
放射能測定器で、量りましたが、問題ありませんでした。
自然界にも放射能は存在するので、ゼロと言う事はありません。
24時間セシュウム測定器を持っていましたが、レベル2でした。
町の主要場所には、数値を表示してあり、何時でも確認できるそうですが、
住まなくてはいけない今の現実、気にしては居られないとの事。
崩れかけた家、傾きかけた家、下が何も無い家、二階家の上の部分が流れ着いた
家、人通りも無い地区を通り抜け、仮設住宅地帯にいきました。
下車することはしないで、辺りの様子のみを視察。
街中から少し外れた場所だったので、コンビニが出来ていました。
続く、、、、、、、、、、、。