ワニなつノート

娘へ  (ついでに伊部さんへ)


 娘へ  (ついでに伊部さんへ)

娘が生まれる前、私とかみさんの共通の知り合いの子は、ほとんどが障害のあるふつうのかわいい子どもたちだった。

私が出会った誰よりも、親に愛され、大事にされている子どもたちだった。だから、どの子も、私がうらやましいくらい幸せな子どもに見えた。それは、障害があるとかないとか、まったく別のことだった。

だから、生まれてくる子どもがどんな子か、という話になると、朝子みたいだったらとか、リサみたいだったらとか、知ちゃんみたいだったらとか、たっくんみたいだったらとか、ごくみみたいだったらとか、えみちゃんみたいだったらとか…、会のキャンプで知り合った障害のある子どもの名前しか出てこなかった。

一人ひとりの子どものことを話しながら、それぞれに、大変なこと、心配なこと、本人も親も苦労するだろうことは、次々と浮かんだ。

でも、それでも、どんなときでも、生まれてくる娘をどう迎えればいいのか、大事なことは、みんな朝子たちのお父さんお母さんから、伝えてもらっていた。

生まれてくる子どもを、どう守ればいいか、私は伊部さんやたっくんのお母さんたちに、教えてもらっていた。

私が娘に会う前に、何より幸運だったことは、朝子やたっくんに出会えたことだったと、いま思います。

   ◇     ◇     ◇


守る。
この子を守る。
この子を守りたい。

娘が生まれてから、ずっとそう願ってきた。
単純に自分の命と引き換えでも、娘を守れるならうれしいことだと思ってきた。命と引き換え、という言葉が、現実には脳死の問題などを含んでいて、軽い言葉になっているかもしれない現実はあるにしても、それでも、やはり娘より大事なものはこの世にはない。

守る。
この子を守る。
この子を守りたい。

守る、というとき、小さいもの、弱いものを、守るのではない。
守るのは、小さかろうが、弱かろうが、
そのことを「守る」のではない。
それは、余計なお世話だろう。
それは、この子に、失礼なことだろう。
この子の人生を、この子が自分で生きていくことを、
「守る」はない。

守るというとき、この子のその力を、ないものにするものと闘うということだ。
この子の弱さを、私が守る、のではない。
この子が弱さを含めて生きる姿を、みないもの、ないものと扱う者たちから、守りたい。
この子が、自分の人生を安心して、生きられますように。
弱さも、夢も、はかなさも、あこがれも、友達も、仲間も、さびしさも、人を好きになる気持ちも、思いが通じないさびしさも、時に孤独も、憎しみも、喜びも温もりも、大好きな人と、大好きな人たちと、共に過ごす時間を喜びを繰り返し、まっすぐ、いえあちこち迷いながらでいい、堂々と、いえ淡々と、生きてほしい。

この子を守る。
この子を守りたい思い。

この子がここにいない、ように、扱い、みなすものから、守る。
だから、この子がここにいる、と誰よりもこの子を見ること、この子を呼ぶこと、この子を自慢する親バカであることが、この子を守ることになる。
この子はここにいる。
だから、障害があることを隠してはいけない。
隠してしまったら、「この子がここにいる」ことを、守れなくなってしまうから。
この子が「なぜ自分だけ…」と、2歳でも5歳でも10歳でも、いつか気づくことは、それがどういうことであれ、この子自身にとって「大事な自分のこと」だから。

この子を守る。
この子を守りたい思い。
それは、この子をありのままに、受けとめ、共に生活し、社会に押し出すこと。
隠さない守り。委ねる守り。信じる守り。


   ◇     ◇     ◇


理解はいらない。
ただ、この子の人生の邪魔をしないでくれ。
この子が出会うもの、出会う関係、出会う世界の邪魔をするな。

この子を理解してほしい、なんて、親が求めるのはおかしなこと。
人が人を理解するなんてことが、できるのか。
私自身、この子を理解するとは、どういう事なのか。

この子が、分かり合いたいと願うのは、この子が共に生きたいと願う人達であり、社会であり、この子を見ようとしない人たちに、理解してくれとは思わない。

理解はこの子がつくるから。
この子が、「わたしはわたしよ」と、そばにて、この子が出会う友だちに、その姿がみえ、その声がきこえ、関係ができれば、関係はお互いだから。理解もまたお互いだから。


   ◇     ◇     ◇

0点でも高校へ

15歳。
中学校卒業。
将来への夢。仲間との別れ。
高校。
誰もの人生のなかで、中学の卒業と高校の入学は、とても大きな出来事の一つだろう。

そのとき、誰がこの子たちのことを覚えているだろう。
0点でも高校へ。
この言葉を初めて聞く人は、誰も本気にしない。何をふざけているのかと。
高校は受験があるんだから、0点で入れるわけがない。
何より、高校に行くために、みんながどれほど苦労しがんばって勉強してきたか。
それを、「何の努力もせず」「がんばりもせず」、「0点でも高校に入りたい」なんて、それは、あまりに身勝手ないいがかりじゃないのか。

「それは難しい」、「高校は義務教育じゃないから」という理由から、しだいに「それはずるい」と言い出す人がいる。
その人たちは、「0点で入れるなら、自分の努力は何だったのか、自分は何のためにいろんなことを犠牲にして、我慢して、受験勉強を乗り越えてきたのか。0点の子を、なんの努力もしない子を、高校に入れるなんてとんでもない。」
たぶん、そう思っている。何か、とても大切なものを犠牲にして、呑みこんで我慢して、がんばって生きてきたのだろう。
高校は入試選抜があるんだから、がんばらないと高校生になれないと、脅され、脅かされ、部活やその時やりたいことをがまんして、友だちとの関係も入試に左右されながら、生きてきた、その根拠を、「0点でも高校へ」などと、簡単に壊されてはたまらないのだろう。

高校進学率98~99%。
特別支援学校の進学率=100%
2010年。高校の授業料無償化開始。

そのとき、誰が、この子たちのことを覚えているだろう。
誰の目に、この子たちは見えているだろう。
この子たちは、ここにいる。
高校に進学する99%の子どもたちと同じ。
将来への希望と不安を胸に抱えて、義務教育を終えて、自分の人生の新たな一歩を踏み出そうとしている。

守る。
この子を信じて守る。
この子の出会う人を信じて守る。
守るとは、この子を、ありのままのこの子を、
この社会では、「障害」がことさらにクローズアップされるなら、この社会で生きていくこの子のために、堂々と障害を持って生きることを、「0点で高校へは、当たり前のこと」と押し出していくことが、本当に親が願う守りにつながると思う。
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